ビジネスマン的恋愛事情 〜花薫る頃に……〜
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月曜日の朝は、初めて西崎邸からの二人での出勤となった。土曜だけでなく、日曜の夜も柴田が泊まっていったからだ。 二人は一緒に家を出て、駅まで歩いたが、電車に乗る際に柴田が1本後ので行くからと言って別れた。
西崎が会社に着くと、そこでずっと待っていたのかロビーに伊藤の姿があった。
「あ! 西崎さん! おはようございます」
伊藤は、西崎の姿を確認するなり、パアッと顔を輝かせて、子犬のように嬉しそうに寄ってきた。
「やあ……おはよう、伊藤君……どうしたの?」
西崎は「おや?」という顔で、微笑みながら伊藤にあいさつした。
「え? いえ……西崎さんを待っていたんですよ。土曜日の件でお礼が言いたくて……本当にありがとうございました」
「そんな……お礼だなんて……こちらこそだよ」
「土曜の夜、電話があったんです。それですごく西崎さんに感謝しているって……あいつ感激して泣いたりしてて……なんか本当にすみませんでした」
伊藤は何度もペコペコと頭を下げた。
「ちょっとちょっと……オレは何もしてないよ。一緒に食事して話しをしただけだし……変な誤解しないでくれな?彼女に悪さはしていないから」
「大丈夫ですよ……ちゃんと話しは聞いてますから」
二人は、あはははと笑い合った。
「そうだ、それでもうちょっと色々と話しがしたいんですけど……今日ランチをご一緒させてもらってもいいですか?」
「え? ああ、もちろん全然かまわないよ、そのかわり、もうお礼でおごりとかそういうのは無しな」
「え? あ……はい、解りました」
伊藤はチェッという顔をした。
「やっぱりそのつもりだったんだな」
「バレました?」
伊藤はエヘッとテレ笑いをした。
「おはよう」
二人の横を柴田が声をかけて通りぬけた。
「あ……おはようございます」
二人は柴田に挨拶をした。柴田はチラリと一瞬、西崎と目を合わせた。
「柴田部長って、本当に格好良いですよね〜〜」
伊藤がその姿を目で追いかけながら、しみじみと言った。
「そうだな……あ、部長より出社が遅くなっちゃった。じゃあ、オレはもう行くよ……また後でな」
「あ、はい! 引き止めてすみませんでした!! え? あ……オレも行きますよ!!」
伊藤は慌てて、西崎の後を追ってエレベーター前へと走っていった。
お昼休みに、西崎と伊藤は会社近くのファミレスで、テーブルに向かい合って座っていた。ラッチセットを食べながら、伊藤が話しを切り出した。
「西崎さんは、最初から知っていたんですね。あいつが……その……本当の女じゃないって事……」
西崎は、ただ微笑んでみせた。
「オレ……西崎さんに付き合っている人がいるって知っていたけど、あいつがすごく真剣に西崎さんの事が好きだって言うし、なんかあいつずっと苦労していたみたいだから……せめて1度くらいは、普通に女として、普通の男性と付き合って、それで振られても良いっていうなら、その願いを叶えてあげてもいいかなって思ったんです。西崎さんを騙すみたいで悪いな、とは思ったんですけど……すみません」
「なんで騙すって思ったんだ?」
「だから……まさか西崎さんがあいつの本当の性別を知っているなんて思わなかったから……普通、ニューハーフって聞いたら引くでしょ?」
西崎は苦笑した。
「そうだね……普通はそうかもね……だけどあんな美人だったら、男は誰でも嫌な気はしないと思うけどな……確かに、彼女は戸籍上では、性別が違うかもしれないけど、外見だけでなく、中身だって誰にも負けないくらいステキな女性だと思うよ」
西崎は、真面目な顔でそう言い終わると、ご飯を頬張った。伊藤は、箸を止めてジーッと西崎の話しを聞いていた。
「それに……例え男だろうと女だろうと、彼女は伊藤君の大事な従兄弟なんだろう? 伊藤君こそすごいよ……もしもオレが、『伊藤君の従兄弟はニューハーフなんだ』って会社中に面白おかしく言いふらしたらどうしよう? とか考えなかったのかい?」
西崎が優しい口調で、伊藤を気遣うように、周りに気配って、声のトーンを落としながら言った。伊藤は一瞬、今にも泣き出しそうな、笑い出しそうな、不思議な顔になって、口をへの字にまげたまま、しばらく黙っていた。そして「ふうっ」と深呼吸をした。
「西崎さんがこういう人だって信じていたからですよ……オレ、西崎さんの事尊敬してますから」
「なんだよそれ……オーバーだな」
西崎はクスクスと笑った。伊藤もつられて笑った。
それから2週間ほど過ぎたある日の夜、いつものようにラブコールをしてきた西崎が、突然柴田に言った。
「今週の土曜日は、終日空けておいてくださいね」
西崎と付き合い始めてからの柴田は、すっかり休日のスケジュールを西崎に合わせていた。よほど仕事とか、友人からの誘いなどの予定が入らない限りは、いつでも西崎と会えるようにしたかったからだ。
柴田は、大学時代からの親しい友人が数人いる事はいるのだが、年齢が年齢なだけに、みんな家庭を持っていて、今ではそうそう遊ばなくなっていた。むしろどちらかと言えば西崎の方が、友人との付き合いが多く、彼と会えないと解っている時だけ、近くのプールに泳ぎに行ったり、買い物に出かけたりして予定を入れるだけで、今更『空けておいてくれ』なんて言われるまでも無い事なのだ。
だから思わず「なぜだ?」と尋ねた。
「午前中に、引越しの荷物が届きますから」
「え?」
「ああ……荷物って言っても、そんなにたくさんではないですから……衣類とか本とかステレオとか……オレの身の回りの物だけなんで、ダンボール箱で5〜6箱くらいです」
「お……おい、お前の荷物って……」
「やだなぁ……柴田さんが一緒に住もうって言ったんじゃないですか」
「あ……」
柴田は言葉を失った。
あの夜、西崎の部屋に押しかけて「一緒に住んで欲しい」と我侭を言った。西崎はOKのようなニュアンスの返事をしたけれど、ハッキリどうとか言わなかったし、あの後そのまま西崎と激しく抱き合って、自分自身でもその事を有耶無耶にしてしまうかのように、すっかり忘れてしまっていたのだ。それなのに……西崎は、本当に真剣に考えてくれていたのだ。
「だ……だけど……そんな急に引越しなんかして、色々とどうするつもりなんだよ」
柴田は、あせって自分でも何を言っているんだろうと思った。
「え? ああ、大丈夫です。すべて大丈夫。心配しなくてもいいですから! くわしくは土曜日に……じゃあ、おやすみなさい、オレ今、荷物を詰めるので大変なんですよ、業者が明後日には荷物を取りにくるので……」
西崎は明るく言うと、いつものように「愛しています」と言って電話を切った。柴田はとにかく信じられないという面持ちで呆然とするしかなかった。
次の日も次の日も、会社で西崎と会うたびに、どういう事か説明して欲しいと思いながら、なかなか二人っきりになるタイミングが掴めず、夜のラブコールでは「まあまあ、それは土曜にくわしく話しますから」としか言ってくれない。
柴田は悶々としたまま土曜の朝を迎えた。
「おはようございます」
朝9時に西崎がやってきた。
「……で?」
柴田はそれを腕組みをして、不機嫌そうな顔で出迎えた。
「で? ……って……柴田さん、嬉しくないんですか?」
西崎は、ちょっとむくれて答えた。
「お前がちゃんと説明してくれたら喜ぶよ」
「業者が来るまでに説明できればいいんですけど……」
「いいから話しなさい……お前、わざと焦らしているんだろう?」
柴田がイライラとなって言ったので、西崎はちょっとニヤリと笑った。
「解りました、解りました……まず……あの日、柴田さんから言われてから、オレも色々と考えた訳ですよ……引っ越すのは別にすぐでもかまわない……だけど、柴田さんと一緒に住むことが会社にバレないようにしないといけない……引っ越したら、総務に転居届を出さないといけないし、免許証とか諸々の手続きもしないといけないし……それで色々と考えた結果……あの部屋はそのまま借りる事にしたんですよ」
「え!? ……だけど、家賃とかもったいないじゃないか」
「大丈夫……代わりに妹が住みます」
「妹さん?」
「ええ……あいつ、前から一人暮しをしたがっていたんですよ。でもずっと親から反対されていて……ウチ、横浜でしょ?通勤も不便だし……とか色々理由付けて、オレと一緒に住むとか嘘ついて……何とか了承を取ったみたいで……妹とオレもちょっと契約を交わしたんですけどね……」
「契約?」
「まあ……色々と……一番の約束は、家賃を妹が3万円払う事っていうのですけど……あそこ、月8万円なんですよ、その内3万円を妹が負担って事で……最初半分って言ったんですけど、3万円に値切られてしまいました」
西崎はそう言って、あははと笑った。
「あいつ、結構チャッカリしているんですよ……大体柴田さんも見たから知っていると思いますが、あの部屋いいんですよ……部屋も7.5畳で広めだし、2畳程のロフトもあるし、収納スペースもあるし、洗濯機が置ける程度のベランダも付いてて、風呂とトイレが別なんですよ? 駅まで歩いて10分はかかりますけど……こっちではいらないから、冷蔵庫とか洗濯機とかベッドとかを置いてきたし……それで4万円なんて、激安だとは思いません?? ……それなのに、『どうせ1人暮しするなら、もっと通勤に便利な所を借りるのに、お兄ちゃんの為にそこに住んであげるんだからね』なんて言って……まったく……」
西崎は、悪態をつきながらも顔は笑っていた。柴田は、顔を曇らせて黙ったままうつむいてしまった。
「柴田さん? どうかしました?」
「ごめん……」
ポツリとそれだけ言った。
「え?」
柴田は、後悔の念に苛まれていた。柴田の軽はずみな言動で、こんなに大事になってしまった事に対して、後悔してもしきれないほどだった。
西崎が言うように、色々と大変なはずだったのだ。会社へ柴田と同じ住所を申告する訳にはいかないし、だからと言って住所不定には出来ない。
西崎の上司である自分が、個人的な感情に流されて、何てバカな事を言ってしまったのだろうと思った。そして西崎は、その事に対して、真剣に考えて自分なりに解決をしたのだ。
こんなに明るくあっさりとした口調で話しているが、どうすればいいのかとても悩んだはずだし、妹の事だってきっと無理に説得してくれたのだろう。柴田が苦悩の表情で、ずっとうつむいているので、西崎はおろおろとなった。
その時、インターフォンが鳴って、引越し業者が到着を告げた。
「柴田さん、来ちゃいましたよ……こっちの部屋、オレが使ってもいいですよね?」
「あ……ああ……」
西崎が、今では空き部屋になっている前妻の書斎だった部屋を指していった。柴田がなす術もなく立ち尽くしている間に、業者が荷物を運び入れて、あっという間に終わってしまった。
「ごくろうさまでした」
西崎が、業者の人々に挨拶をしてドアを閉めて、初めて柴田は我にかえった。
「西崎……その……すまなかった……私の我が侭のせいでこんな……」
「え? なんです? ……もしかして、後悔しているんですか?」
「している……していない訳ないだろう」
「ひどいな……オレと住みたいって言ったのは嘘だったんだ。せっかくオレはこれから本当に新婚さん気分だって、ウキウキなのに……」
「違うそうじゃない……そうじゃなくて……もっと私もきちんと考えなければいけなかったんだって……お前にばかり面倒な事をさせてしまって……申し訳なくて……軽はずみだったって、後悔しているんだ」
かなりしょげかえっている様子の柴田を見て、西崎はクスリと笑うと、そっと抱きしめた。
「オレは、もっともっと柴田さんに頼りにしてもらいたいし、もっともっと我が侭を言って欲しい……オレにしか見せない顔をたくさん見せて欲しい……あんな感情的な柴田さんが、いつもの柴田さんでないのなら……オレにしか見せたことがないのだと言うのなら、こんなに本望な事はないです。オレは嬉しくて仕方ないんですから……」
「西崎……」
柴田は西崎の肩に顔を埋めた。ここが柴田の求めていた本当の場所なんだと、幸せを噛み締めながら思っていた。この場所だけ春爛漫のようだ。
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