カリフォルニア・ドリーム

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  13  

 自宅アパートの前に車を止めた。
 エディと話をした事で、なんだか気持ちが落ち込んでしまっていた。もちろん彼が悪い訳では無い。ずっと言葉に出さなかった心の奥のモヤモヤを吐き出してしまって、改めて思い知らされて落ち込んでしまったのだ。エディの前では、もう大丈夫だと笑って見せて別れたが、帰り道はずっとブルーな気分のままだ。
 エンジンを止めてからも、しばらく降りずにぼんやりとしていた。今、家に帰っても、多分司郎はいないだろう。またバイトを始めたらしく、毎日昼から夕方まで家を空けていた。『らしい』というのは、本人の口から聞いていないから。それくらいに、最近の二人の間は、どこか余所余所しい。
 氷上は大きくため息を吐いてから、重い腰を上げるように車を降りた。アパートの正面玄関へと向い、階段を上って扉を開けた。そこで中から出て来た人物と鉢合わせになった。
「慎吾!」
「……裕也」
 スラリと長身の若い男の顔を、氷上は驚いたようにみつめていた。


「まったく……急に来るから驚くじゃないか。前もって連絡くらいくれればさぁ、出かけなかったのに」
「ごめん。ごめん……本当は、会えるかどうか解らなかったんだ。だから連絡しなかったんだけどさ……」
 裕也と呼ばれた男は、穏やかに微笑みながらそう言って、上着を脱ぎながらソファに腰を下ろした。氷上はそれを聞きながら、キッチンでコーヒーを煎れていた。
「いつ来たのさ」
「昨日……昨日の夜に着いて、今夜の便で帰るんだぜ? ひどいスケジュールだろ?」
「なんだよそれ……仕事?」
「そう……今やっている依頼人の調査でさ」
 彼はそういって小さく笑った。
 氷上はマグカップを2つ持ってやって来た。1つを裕也に差し出すと「サンキュ」と言って彼が受け取った。向かいに座ると、マジマジと裕也の姿をみつめる。
「なんだよ」
「いや……大分、弁護士らしくなったかな?と思って……」
「ばか」
 二人は楽しそうに笑いあった。
 訪ねてきた男は、藤崎裕也、氷上の中学以来の親友だ。現在は弁護士として、日本で活躍中。氷上とは何もかもが正反対の男だ。優しくて、真面目で、誠実で、忍耐強くて、滅多に怒る事なんて無い。昔から、誰よりも氷上の良き理解者であり、相談相手だった。そして1番成るべくして弁護士になったような気がする。彼のような男に弁護してもらえれば、きっと依頼人は、どんな結果になろうとも納得出きることだろう。
「仕事の方……あいかわらず忙しいのか?」
「そうでもないよ。それはお前の方だろ?」
「ばか、お前がもう2年も日本に戻ってこないから聞いてるんだよ」
「あ……うん」
 氷上は目を伏せた。
 昔と少しも変わっていない裕也。そのまっすぐな眼差しを見つめ返すのが、苦手になってしまったのはいつからだろうと思う。彼と違い、自分は随分変わってしまったと思う。
「おばさんも寂しがっているぞ」
「母さん達は、去年こっちに来たから会っているよ」
「そういう問題じゃないだろう? お前が里帰りするって事が大事なんじゃないか……仕事が忙しいのは解るけどさ。年に1度くらい……アメリカと日本はそんなに遠い距離じゃないよ」
「うん、解ってる……ハハハ……裕也は、いっつもオレに会うと説教はじめるんだからなぁ〜……それより、眞瀬さんは元気?」
「ああ、元気だよ。全然変わらないよ、あの人は」
 裕也が優しく微笑む。眞瀬さんとは、裕也の恋人の事だ。彼よりもずっと年上で、男性の恋人……そう、裕也もゲイなのだ。だが二人の関係は高校の頃からで、もう9年にもなる。まだ氷上が、『男同士の恋愛』なんて想像も出来なかった頃で、親友の裕也が、男性の恋人を作ったなんていうのは、当時とてもショックだった。それも相手は、氷上のバイト先のオーナーで、ずっと年上の大人の人で……。
「あいかわらずラブラブなんだ……ごちそうさまっ!」
「からかうなよ」
 テレたように笑う裕也を、氷上は複雑な思いでみつめていた。
 ずっとずっと、一人の相手を愛しつづけて、思いつづけて、その誠実な人柄のままに恋愛を続ける裕也。彼はきっと男同士の恋愛に『生産性の無い無駄な愛』だとか『なんの約束も無い危うい関係』だとか、そんな疑惑など持ったことは無いのだろう。
 何度も裏切られて、男同士の恋愛には、肉体関係しか無いのだと、完全に信じる事が出来なくなっている氷上とは随分な違いだ。何人もの相手と、ただ欲求が満たされるままに体を重ね合って、乱れ切った性生活を、何の疑いもなく当たり前の様な顔で送っている氷上の今の姿を、彼が知ったらどんな顔をするだろうか? それでも友人としていてくれるだろうか?
 こうやって、何気ない会話を交し合って、高校時代に戻ったかのように、楽しく過ごしながらも、こんな事を考えているだなんて、裕也は思ってもいないだろう。君の座っているそのソファでも、オレは男とファックしたんだ。そう言ったらどんな顔をするだろう。
「誰かいるの?」
「え?」
 会話の途中で、ふいに裕也が言ったので驚いた。彼の視線の先を見ると、司郎が使っている机があった。その上には作り掛けのジオラマがある。
「ああ……助手をね……オレの元で勉強したいって奴が来てさ。日本人なんだけど……だからルームシェアしているんだ」
「へえ……よかったな」
 意外な返事に氷上は首を傾げた。そこで返ってくる返事としては、そぐわない気がしたからだ。
「何が?」
「え? だって寂しくないだろ? 一緒に住む相手がいれば……恋人とかならもっといいんだろうけど……慎吾は寂しがり屋だからさ」
 優しい笑みを浮かべながらそう言った裕也の言葉に、氷上は息を飲んだ。一瞬涙が出てしまうんじゃないかってくらいに、目頭が熱くなったので、奥歯を噛み締めて我慢した。
「ばか……なんだよそれ……寂しがり屋はお前だろ?!」
 氷上は空になったマグカップを持って立ちあがると、キッチンへと向かった。
「眞瀬さんと離れたくないから、弁護士になったくせに……知ってんだぞ!サラリーマンだと転勤があるかもしれないとか、色々と考えて弁護士になる事決めたくせに……おじいちゃんが弁護士だったから、なんてもっともらしい嘘ついちゃってさ、胸の天秤のバッヂが笑うぞ」
 氷上は、必死になって誤魔化そうとしていた。動揺が顔に出てしまいそうだ。胸がとても痛かった。
 昔、叔父の恋人から強姦された時、助けを求めて声に出した相手の名前は裕也だった。SEXだけを求めてくる男達を相手にする度に、その向こうにはいつも裕也を思っていた。裕也の様な誠実な男に愛されていたら、自分はもっと変わっていただろうか? そう思って、眞瀬を羨ましく思っている自分に気がついた時から、裕也の真っ直ぐな目をみつめられなくなった。親友なのに……汚れてしまった自分は、裕也までをも汚そうとしている……。
「ばれたか」
 裕也が笑う。氷上は一生懸命に笑顔を作った。
「あ……っと……もうこんな時間だ」
 ふいに裕也が腕時計をみつめて呟いた。
「なに? もう帰るの?」
「ああ……19時の飛行機だから、そろそろ空港に行かないと……お前と居ると、ついつい時間を忘れてしまうな」
 裕也が立ちあがって、上着を羽織り始めたので、氷上はマグカップを置いて慌てて駆け寄った。
「どうしてもその便で帰らないとダメなのか? 明日に延ばせないのか?」
 駄々をこねる様に言う氷上に、裕也はクスリと笑って優しくその頭を撫でた。
「やっぱり寂しがり屋だなぁ……でも会えて本当によかった。安心したよ……今度またゆっくり会いに来るよ」
「今度っていつだよ……ちっとも来ないくせに」
 口を尖らせてスネたように言うので、裕也はまたクスクスと笑う。
「約束するよ、今度は眞瀬さんも連れてくるからさ」
 裕也はそう言って、氷上を軽く抱きしめた。氷上は裕也の広い胸に顔を埋めた。目を閉じて、大きく息を吸い込む。裕也の匂い。
「うん」
 氷上はコクリと頷いた。その頭を裕也はポンポンと宥めるように軽く叩いた。
「空港まで送るよ」
「じゃあ……そうしてもらおうかな」
 氷上は顔を上げて裕也をみつめると笑顔をみせた。
「ただいま」
 そこへ司郎が帰って来た。玄関を開けて、ぼんやりとこちらを見たまま佇んでいる。
「あ……司郎……」
 氷上は振り向いて、司郎の姿に驚きながら、裕也から離れた。裕也はその様子に何かを感じ取って、司郎をみつめた。
「あ……司郎、おかえり……あの、彼、オレの中学の頃からの親友で、藤崎裕也っていうんだ。裕也、彼は池脇司郎君って言って……」
「さっき言っていたルームシェアしている助手だね?」
 説明する前に、裕也が答えたので、氷上はチラリと司郎を気にしながらもコクリと頷いた。司郎は裕也の言葉にカチンと来た様子で、ムッと露骨に不機嫌な顔になった。裕也はそれに気づいていたが、表情には出さずに穏やかに微笑みながら、ゆっくりと司郎へと歩み寄った。
「藤崎です。よろしく」
 裕也が右手を差し出して握手を求めたので、司郎は少し躊躇してからそれに答えた。
「貴方のことは伺っています……池脇司郎です。よろしくお願いします」
 キッと見つめ返して、司郎が答えたので裕也も氷上も驚いた。
「司郎……」
 氷上が何か言おうとしたが、裕也がクルリと振り返ってニッコリと笑ったので、言葉を止めた。
「慎吾、じゃあ悪いけど送ってくれる?」
「あ……うん」
「丁度帰るところだったんだ……慎吾に空港まで送ってもらうんだけど、君も一緒に来るかい?」
「いえ、留守番しているので結構です。どうぞせっかくですから、二人だけで行かれてください」
 司郎はペコリと頭を下げてから、二人の横をすり抜けて部屋の奥へと向かった。それを氷上が困ったような顔で見送る。
「じゃあ……ちょっと行ってくるから」
 氷上は司郎に告げると、裕也と共に部屋を出た。


「彼……誤解していたみたいだけどいいの?」
 車に乗り込んでから、一言裕也が言ったので、氷上はギョッとした顔になった。
「誤解って……なにが?」
 誤魔化すように笑顔を作ると、裕也はクスリと笑った。
「彼……ただの助手じゃないんだろ? すぐに分かったよ」
「別にそんなんじゃ……」
「喧嘩でもしているの?」
「裕也!」
 氷上は思わず大きな声を上げてそれ以上の言葉を制した。信号待ちでチラリと隣を見ると、裕也は微笑んでこちらを見ていた。しばらく見つめあった後、氷上は諦めたように小さく溜息をついた。
「確かに……ただの師匠と弟子って関係じゃないよ……でも恋人とかって関係でもないんだ。だから裕也が気にすることなんてなんにもないよ」
そこまで話して前を向くと、信号が青に変わったので車を発進させた。
 裕也はそれ以上何も言わなかった。今度は氷上のほうが気になってきた。なぜ黙ってしまったのだろう? 時々チラチラと裕也のほうを気にして視線を向ける。裕也は氷上とは反対側を向いて、窓の外を眺めていた。
「彼って結構しつこい性格だろ?」
「え?」
 突拍子も無い言葉に、氷上は首を捻った。
「一歩間違えればストーカーになりかねないタイプだ」
 裕也は尚も言葉を続けた。氷上はなんと答えればいいのか解らなくてただ前をみつめて車を走らせ続けた。
「違う?」
 裕也がこちらを向いた。楽しそうな様子をしていると思う。氷上は困ったように考え込んでいた。確かにそうなんだけど……司郎はストーカーになりかねない奴だ。氷上のことをずっと好きだ好きだって言い続けて、付きまとって、とうとう部屋に居候してしまったし、助手にまでなってしまった。なぜそれが裕也に分かるのだろう? と不思議に思っていた。どういうつもりで、それを裕也が口に出したのかも分からない。
「なにがいいたいんだよ」
「慎吾にはすごく良い相手だなぁ〜と思ってさ」
「なっ……」
 氷上はあまりの事に、急ブレーキを踏みそうになった。なんとか運転を続けて、必死で気持ちを落ち着かせた。
「ど……どういう意味だよ……それ」
「慎吾は、ベタベタされる方が絶対良いと思ってさ……束縛する相手のほうが絶対にうまくいくよ」
「ど……どういう根拠だよ」
 動揺して運転がおかしくなりそうだ。だが裕也は余裕の様子でいる。乱暴に車を走らせて、なんとか空港へと辿り着いた。駐車場に飛び込むような勢いで車を止めてから、ふう……と深呼吸をした。
「裕也!」
「慎吾……君はアメリカに来て、すごくたくさん苦労して、オレの何倍もがんばって、本当にすごい奴だって思ってる。尊敬してる。オレはいつだって、お前の事を思ってる……だけど何もしてあげられないからさ。うるさい事しか言えないけど、お前の事を心配していたんだよ。でも本当に今日は安心した……慎吾、アメリカで一人でやってくのって大変なんだろうなって思う。お前がいつもそうやって肩肘張ってなきゃならないのも分かる。人を信じられなくなるくらいに、いっぱい嫌な思いをしたのも分かる……だけどね、本当に必要な相手を見逃したらダメだよ? その人は、もう二度と現れないかもしれないんだから」
 裕也の言葉に、氷上は目を丸くして呆然とみつめかえしていた。裕也はさわやかな笑顔を向けると、手を伸ばして氷上の頭を撫でた。
「ここで別れよう……送ってくれてありがとう。たくさん話が出来て良かったよ。絶対近いうちにまた会いにくるって約束するよ……お前はもうここからまっすぐ家に帰れよ、そして彼とちゃんと話をするんだ」
「裕也」
「元気でな」
 頭を撫でた手が下へと降りて頬を軽く抓った。クスリと笑ってから車のドアを開ける。
「裕也」
 裕也はヒラヒラと手を振りながら車を降りてバタンとドアを閉めると、空港のほうへと走って行った。それを車の中からぼんやりと見送る。
 下唇をキュウッと噛んだ。なんだか胸がとても痛かった。別れは嫌だ。だから日本にも帰りたくなかった。好きな人との別れは辛くて嫌だ。
 やっぱり裕也は、嫌になるくらい好きだ……そう思いながら車を発進させた。
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