カリフォルニア・ドリーム

モドル | ススム | モクジ

  8  

 氷上が家に戻ったのは昼を過ぎている頃だった。司郎の姿は無く、バイトに行っているようだ。氷上は疲れ切っていたので、そのままフラフラと寝室へと向うと、着替えもせずにベッドに横になってしまった。あっという間に、睡魔に襲われて、深い深い眠りに落ち入ってしまった。
 爽やかな目覚めが訪れて、氷上は起きあがると大きく伸びをした。時計を見たら、10時を指していた。
「10時……」と思って、ぼんやりとまだ完全に覚めきっていない眠気眼で、辺りをキョロキョロと見ると、半開きのカーテンから見える外はとても明るくて、明らかに『朝の10時』だった。
「やべ、スタジオに戻らなきゃ……」
 氷上は慌ててシャワーを浴びると、着替えて外出する支度をした。リビングに行くと、司郎の姿は無かった。バイトは午後からのはずなのに……そう思ったが、彼にもそれなりに用事があるのだろうと思った。もしかしたら買い物に行っているのかもしれない。
 ダイニングテーブルを、無意識にチラリと覗くと、そこは綺麗に片付けられて何も置かれていなかった。いつもなら、氷上の分の朝食があるはずだ。
「オレが帰ってきていた事を知らないのかな?」
 氷上はポツリと呟いて、あまり気にする事無く、そのまま仕事へと向った。


 氷上がその後、家に帰ってきたのは、明け方近くだった。空が白み始めていた。
「また徹夜しちゃたよ」
 グッタリとした様子で戻ってくると、溜息をついて玄関のドアを開けた。まだ暗い室内は静まり返っている。いつもの癖でチラリとダイニングテーブルを見ると、そこには何も置かれていなかった。
 まただ。
 氷上はなんだか不愉快な気分になって、眉を寄せた。リビングへと歩いて行き、ソファを覗き込むと、いつものように司郎が毛布に包まって、身を縮ませて眠っていた。その様子をしばらく見つめて小さな溜息をついた。
 またちょっかいを出したくなったが、グッと我慢した。前回の様に、エスカレートして歯止めが聞かなくなっては困る。もっともあの時は酒を飲んでいて、かなり普通ではなかった。もう1度小さく溜息をついてから、寝室へと向おうとしてふと目が止まる。何か違和感を感じて、視線を動かした。キョロキョロと見たが、やはりおかしい。
 何がおかしいって、氷上が司郎に買ってやった簡易机の上に、ずっと置いてあった制作中のフィギュアがなくなっていた。つい2日前に見た時は、まだまだ未完成だったはずだ。フィギュアだけでなく、道具までもが片付けてあった。綺麗にされ、ゴミひとつ無い机の上。氷上は眉間を寄せた。自然と他の場所へも視線が動いた。部屋の片隅に蓋を開けて二つ並んでいたダンボール箱。中には司郎の身の回りの物が入っていた。箱は蓋が閉じられてテープで留めてあった。二つが積み重ねられている。
 氷上の心臓がドキリと鳴った。それからドキドキと心拍数が上がる。気づいたら、司郎の肩を揺さぶって起こしていた。
「司郎!! 司郎!! 起きろよ!!」
 大声を上げて、乱暴に揺さぶって起こした。司郎は、突然の事に驚いて飛び起きたが、まだなんだか解らない様子で、ぼんやりとした顔をしていた。
「ひ、氷上さん?」
 司郎はゴシゴシと乱暴に目を擦った。
「お前! どういうつもりだよ!?」
「え!?」
「荷物片付けて、どういうつもりなんだよ!!」
 声を荒げる氷上に、ようやく司郎は頭がハッキリしてきたようだ。
「あの、住む所をみつけたので、移るつもりです」
「な、なんだよそれっ!! オレは何も聞いてないぞ!?」
「すみません。でも氷上さん忙しそうで、全然帰って来ないから……」
 司郎は困った様に頭を掻いた。司郎にはなぜ氷上がこんなに怒っているのかが解らないようだ。氷上が仁王立ちになったままで、唇を噛んでジッと司郎をみつめていた。司郎は、ソファに座り直すと、毛布を畳み始めた。氷上が怒っているので、なんだか落ち着かない様子で、間を持たせるためにモゾモゾと動いているのだ。
「どこのアパートだよ。貸主はちゃんとしているんだろうな? お前、騙されたりしてないよな? 物件はちゃんと見たのか?」
「昨日……決めて、前金が要るって言うから、渡して……今日、部屋を見せてもらう予定です」
「バカ!! そんな部屋も見ないで、なんで金を渡すんだよ!!」
「でも全部じゃないし……部屋見て嫌だったら、お金は返してくれるって言うし……」
 司郎は困った様に目をウロウロとさせていた。氷上は怒りが収まらない。司郎は人が良いから、絶対騙されるに決まっているのだ。部屋も見てないのに、お金を払うなんて、信じられない行為だった。
「今日一緒に行く」
 氷上はムキになって言った。
「いいですよ。仕事……忙しいんでしょ?」
 司郎は目を合わせようとしなかった。何かいつもの司郎と違う。そんな様子にも頭に来ていた。
「オレはお前の世話をするって約束したんだから……部屋が決まるまで面倒を見るよ」
「いいです。もう十分にお世話になったし……これ以上迷惑は掛けられませんから」
 司郎はそう言って困った様に薄く笑った。
「別にそんなの迷惑なんて……」
「もっと早く部屋を探すべきだったんです。なんか甘えちゃってずるずると……本当にすみませんでした」
 司郎はそう言って頭を掻いた。やはり絶対に目を合わせない。そんな態度が、とても余所余所しかった。多少ずうずうしいと思うくらいに人懐っこくて、真っ直ぐだった司郎らしくない。
「なんで急に……何が不満なんだよ。こんな……ひどいじゃないか。このまま黙って出て行く気だったのかよ。オレの所為か? オレがこの前、お前をいじめたから……だからか?」
「違います! オレの……オレの所為です!」
 司郎はいきなり大きな声でそう言うと立ち上がった。氷上は驚いて司郎の顔を見上げた。司郎は眉を寄せて、なんだか泣きそうなくらいに困っている顔をしていた。
「オレこれ以上、ここに甘えていたら、貴方に酷い事をしてしまいそうだから……これ以上、嫌われたくないし……だから早く出て行かなきゃいけないと思って……」
 必死な顔で言った司郎を、氷上は目を大きく見開いて、ジッと見上げた。
「ど、どういう事だよ……」
「オレこの前……我慢出来なくなって……氷上さんを汚しちゃったから……」
「え?」
 氷上は司郎の言っている言葉の意味が解らなかった。何を言っているのだろうか? 汚した? 誰が誰を?
「オレ欲望だけで、氷上さんを襲ってしまいそうで……絶対に何もしないって約束したのに……すみません。氷上さんがオレを避けるのは当然です。本当にケダモノで……すみません」
 司郎はその大きな体を深く折り曲げて謝った。
「え? え? なに? 司郎……何を言っているのか解らないよ」
「2日前の夜……オレが氷上さんにあんな事をしたから……怒らせてしまったんでしょ?」
「あんな事?」
 本当に訳が解らないと言う様子の氷上に、司郎は言い難そうに目を閉じてその言葉を告げた。
「あの夜……オレ、氷上さんに欲情して……勃起しちゃって……射精まで……それも氷上さんのその綺麗な顔にかけるなんてひどい事を……」
 氷上はそれを聞いて、あんぐりと口を開いてしまった。信じられないと思った。あの事を、司郎がそんな風に思っていたなんて……
「司郎、とにかくちゃんと話そうよ。座って」
 氷上は脱力した様子で、トーンダウンした口調で司郎を宥めるように言った。

 司郎の隣りに座ると、氷上は小さく溜息をついて、しばらく宙を仰いだ。信じられない。あまりの事に、怒りも消え去り、呆れて物も言えないくらいだ。この男は、どこまで人が良いのだろうか? 天然ボケか、それとも本当にアホなのだろうか? どうやったらあの状況で、すべて自分が悪いなんて言い切れるのだろうか? その上、氷上の事を汚したと思っているだなんて……。
 あの夜は、氷上が司郎を襲ったのだ。誰がどう見たってそうだ。司郎の立場からすれば、無理矢理襲われて、無理矢理勃たされてイカされた。それがありのままだ。その気の無い男であれば、男からそんな事をされて気持ち悪いと訴えてもいいくらいだ。その気があるのならば、まあ役得と思いこそすれ、汚して怒らせたなんて……どんな思考能力を持ってすれば、そんな発想になるのだろう? と、つくづくと思っていた。氷上はもう1度溜息をついてから、ゆっくりと司郎の方へ顔を向けた。
「司郎、まず順序をおって話をしよう」
 氷上はまるで子供に言い聞かせるように、ゆっくりとした口調で(日本語なのに)穏やかなトーンで話し始めた。
「まず君が気にしている事だけど……例の事に関しては、オレは全然怒っていないから、まずそれを信じてくれる?」
「え?」
 司郎は、とても驚いたように、目を大きく見開いて氷上を見たので、氷上は「やれやれ」という顔になった。
「ほ、本当ですか?」
「本当も何も……第一、あの事についてオレが怒るほうがおかしいよ。君を襲ってエッチな事をしたのはオレなんだからさ。なんでそれなのにオレが怒るんだよ」
「え? え?」
 司郎は、言われた事が理解出来ないらしく、目をウロウロとさせている。
「司郎!」
 氷上はそんな司郎の顔を両手で挟むようにガッシリと固定させて、自分の方を見る様に仕向けた。
「勘違いしているのは君だよ? よくよく思い出して考えてご覧? 寝ていた君を起こして、いたずらしたのはオレ! 君がオレを襲おうなんて、全然やってないだろ?」
「え、だけど……だけどオレ、氷上さんにあんな事とかエッチな事をしたいって思ってて……だからすぐ勃っちゃって……」
「そうだよ! 君はオレの事が好きなんだろ? 好きな人からエッチな事して迫られたら、男なら誰だって勃っちゃうよ! 当然だろ?」
「で、でも、オレは男で、氷上さんも男で……男が自分に対して欲情して勃ったら気持ち悪いでしょ?」
「いや……別に……」
 氷上が困ったようにそう答えたので、司郎も困った様に口をつぐんだ。しばらく互いに沈黙が続いて、氷上は司郎の顔から手を離した。
「氷上さんって……ゲイなんですか?」
 天然君が、ポツリとそう聞いてきたので、氷上はキッと睨み返した。
「違うよ」
 キツイ口調で一言そう言ったので、司郎は青くなったが、氷上はすぐに表情を崩した。
「ゲイじゃないよ……バイだよ」
 ケロッとした顔でそう言ったので、司郎は目を丸くして「バイ」と復唱した。
「基本は女の子が好きだけど、別に男もOKだよ。オレが好きになったらね」
 氷上が軽く言った言葉だが、とても重い意味に感じられた。氷上が好きになる。それが1番難しい気がした。彼が好きになってくれないかぎり、男と言う立場はかなり高いハードルなような気がした。
「でも氷上さん、あの後怒って去って行ったから……だから怒っていると思って、でも今の話からすると、やっぱり好きな相手しか、男は無理って事で……だからオレが相手では無理って事なんでしょ?」
 天然君は時々かなり鋭い所を突いてくる。突いてくる所は鋭いけれど、そこはやはり天然君。もっと重要な点に気づいていなかった。
好きな相手しか男は無理=だからオレは無理⇒NG
好きな相手しか男は無理=司郎にキスして、彼のペニスを扱いた⇒十分な事してます。
 その発想で「好きな相手=司郎」という大胆な事を言ってもいいくらいだ。もっともそんな事を彼が言ったら、氷上は即否定するけれど……。
「別に怒ってないってば……あの時は君に精液を顔に掛けられた事で我に返ったんだ。それでマズイ事をしちゃったっていうか。やり過ぎたって言うか。とにかくなんだか気まずくなって、あの場を逃げたんだよ」
「怒ってましたよ」
「怒ってないって」
「オレの事、『早漏』って言って怒ったじゃないですか」
 司郎の言葉に、氷上は「あっ」と声をあげた。言った。そういえば、そんな暴言を吐いた。思い出して、みるみる赤い顔になった。ちょっと目を伏せて、冷や汗が出て来た。
「ごめん、あれは暴言だった。ごめん」
 男として傷つくよな。そう思って申し訳無くなった。でも確かに早過ぎたんだけど……。
「いや、オレ、早かったから、怒られても仕方ないです。全然我慢出来なくて、顔にかけたりして……すみませんでした」
 何かフォローしてあげようと思ったのだが、早かったのは確かで、うまく言葉が出てこなかった。
「初めてだったんです。だからもう全然我慢出来なくて……」
 司郎の言葉に驚いて、氷上は顔を上げて彼を見た。司郎は耳まで赤くなっていた。
「初めてって……フェラが?」
「はあ……まあそれもそうなんですが……その、オレ……まったく初めてで」
「まったくって?」
 氷上はある言葉が頭に浮かびながらも、また暴言を吐いてしまっては失礼だと思って、遠まわしに聞き返した。
「オレ……童貞なんです」
 司郎が爆弾発言をした。氷上は、目を丸くして、口を半開きにして、固まってしまっている。変な雰囲気が流れた。ヒュウウウッと空気の吸い込まれるような音がしたかと思うと「童貞ぃぃっっっ!!??」という氷上の叫びにも似た声が轟いた。
 そしてまた静寂。

「ごめん」
 沈黙の後、氷上がちょっと赤くなってポツリと言った。また暴言を吐いてしまったと反省したからだ。
「いえ、別に」
 司郎も赤くなって答えた。
「そうなんだ」
「そうなんです」
 氷上はなぜか司郎と一緒になってテレていた。
 なんだろう……なんだかちょっと恥かしかった。『チェリーボーイ』こんな立派な青年では初めて見た。分類からすると天然記念物かもしれない。
『よく食われずに生き残っていたな』そんな感想が、なぜか氷上の頭に浮かんだ。これだけのルックスで、彼が天然だとしても、大学とかでお姉さんに食べられても仕方ないと思う。そう思うと同時に「食べてみたい」そんな欲望がムクムクと沸きあがってきた。フフフッと含み笑いをしそうだった。別に男を襲う趣味がある訳でもなければ、真性ゲイではないので、自ら男と進んでエッチしたいと思う事も無かったのだが、なんだか司郎に対しては、イタズラしたいという欲望がすぐ沸きあがってしまう。
 童貞の天然君……なんだかとても美味しそうな気がした。
「可笑しいですか?」
 司郎に言われて「へ?」と我に返った。
「いや、そんな事無いよ」
「顔が笑ってますよ」
「え? あ? いや……ごめんごめん」
 氷上は笑って誤魔化しながら、頭を掻いた。
「まあまあまあまあ……とにかくオレが怒っているっていうのは誤解! ね? これで解決……だからそんな慌てて出て行くなよ」
「え? でもどっちにしろ出て行った方が……」
「いいんだよ!! とにかくまだここにいろ!!! 後でアパートはキャンセルに行くぞ!」
 氷上に無理やりそう言われて、司郎は戸惑いながらも頷いた。
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