その世界の西の果て……西の辺境と呼ばれる地があった。湿地と荒野がその大半を占めるその大陸は、決して恵まれた土地ではなく、人が好んで住むような地でもなかった。それでもいくつかの小国が存在し、また国に含まれない未開の地にも、蛮族たちがいくつもの集落を持っていた。その辺境の地の一番最西部にある小国トレイトは、小さいながらも1000年の歴史を持つ王族が支配する国で、『西の果ての国』と呼ばれていた。その国よりも更に西にあるのは、人が踏み込むことが困難だと言われる深い樹海と、更にその西には険しい山脈があり、人々はそれより西にはもう世界は無いと思っていた。

 −西の果ての国−トレイトは、決して豊かな国ではなかった。しかし長い歴史のあるその国は、安定した王政により国内の治安は良い方で、人々は静かにつつましく暮らしていた。そんな静かな小国に、近年稀に無い大事件が起こった。
 首都リュムに、3頭の竜が飛来したのだ。
 東の国に、伝説の竜の住む国がある。―――それは人々にとっては、御伽噺に近いものであった。はるか昔に、このトレイトにも、竜の国の者が訪れたことがあるという話は、聞き伝えにあったが、誰も本物を見たことは無かったので、それは大事件であった。
 エルマーン王国……竜に乗ってきた使者達は、王に謁見しそう告げた。現王ドレイクは、初めて見、初めて会ったが、その先祖がエルマーン王国と親交があった事を知っていたので、使者たちを丁重に迎え入れた。
 エルマーンの使者達の用向きは、今、西の大陸で数多く戦争が引き起こされている事についてであった。西の果てのこの国までは、まだその火種は及んでいなかったが、確かに最近、西の地の至る所で、蛮族同士の内乱や、国同士の小さな戦争が起きていることは、王も聞き及んでいた。親交あるトレイトに、何か困ったことがあれば手を貸すとのエルマーン王からの親書が渡された。
 トレイトの王は大層感激し、エルマーンの使者を手厚くもてなした。
 国中にその噂が広がるのに、大した時間は掛からなかった。

 トレイトの北のはずれの小さな森。その森の中に建つ小さな小屋には、若い男と年老いた男が二人っきりで人目を避けるように静かに暮らしていた。
「シュイ……スープを作った……飲みなさい」
 男はベッドに眠る老人に、優しく声をかけた。老人は枯れ木のように痩せ細っていた。髪も真っ白で、かさかさになった深いシワのある顔は土色をしていた。生気もあまりない。老人はゆっくりと目を開くと、覗き込む若い男の顔をジッとみつめた。
「フォンルゥ……村に行ったのですか?」
「……食べるものが尽きてしまったからな……芋を2つ買えたから、スープを作った……さあ、飲みなさい」
「私はもうダメです……もうこれ以上貴方の側に居ることは出来ないでしょう……」
「シュイ……何を言う。ちゃんと食べ物を食べて、薬を飲めば元気になる。ほら、飲みなさい」
 シュイと呼ばれた老人は、少し微笑んで見せてから首を振った。
「これが私の寿命なのです……とうとう貴方を一人にしてしまう日が来てしまった……フォンルゥ……ごめんなさい。本当ならば……私は妻を娶り、子を儲けて、貴方を代々お守りしなければならなかったというのに……私は自分の身勝手から、その掟を破ってしまった……分かっていたのに……私は先に年老いて、こうして貴方よりも先に逝ってしまう……祖父母や両親達の様に……貴方をたった一人残して、先に逝ってしまうのが……それだけが心残りです」
「シュイ……案ずるな……オレもすぐにお前と一緒に逝けるだろう」
「フォンルゥ?」
「さっき……村に行ったときに、村人達が話をしているのを聞いた……この国に、竜に乗った者達が来ているらしい」
「竜……エルマーン?!」
「たぶんな」
 シュイは目を大きく見開いて、驚きの余りに言葉を失った。布団の中から痩せ細った手を差し出して、フォンルゥの頬へと触れた。フォンルゥはその手を強く握り締めた。
「大丈夫だ……お前がもう逝ってしまうと言うのならば丁度いい……奴らがオレを捕まえに来たのならば、オレもそこで果てよう。お前の後を追う」
「いけません! 逃げて! フォンルゥ……逃げてくだっ……ゲホッゴホゴホゴホッ」
 シュイは突然発作のような咳を始めた。苦痛に顔を歪ませて、胸を押さえながら咳き込む姿に、フォンルゥは慌てた。
「シュイ!! しっかりしろ! シュイ!!」


 毛布に包めたシュイを荷車に乗せて、フォンルゥは夕暮れの道を走った。馬などは持っていない。自らが馬の代わりに荷車を引く。必死の形相で走った。近くの村には医者は居ない。医者が居るのは、首都リュムの城下町だけだ。走っても人の足では3時間以上は掛かる。
 フォンルゥは、異様な風体をしていた。その顔や体がという訳ではない。長身で良い体躯をしていたが、真夏でも手の先まで覆うほどの長衣を纏い、手袋も嵌めていた。その上から黒いマントを羽織り、頭にも布を巻きつけて髪を隠し、その若く整った精悍な顔も半分ほど隠していた。
 普段は滅多に人前に出ることは無く、近くの村の人々も滅多に彼のその姿を見たことは無かった。時折食糧を買いに来るのは、年老いたシュイの方で、シュイもまたあまり村人達と交流することが無く、人々は「変わり者だ」と言って、森に近づくことが無かった。
 だからこんな時に、助けを求められる相手は居ない。馬を貸してくれる者もいない。ただこんな異様な風体の大男が、老人を乗せた荷車を引いて走る様を、驚いたように眺めるだけだった。
 フォンルゥが城下町に辿り着いたのは、すっかり夜も更けた頃だった。いくつかの酒場から明かりと人の声が漏れ聞こえるだけで、道沿いのほとんどの店は、明かりが消え、堅く戸が閉ざされていた。道行く者もまばらだ。
 フォンルゥは1軒の家の前で荷車を止めると、玄関まで駆け寄りその戸をダンダンと叩いた。
「開けろ! 開けてくれ!」
 しばらく激しく叩いていると、ようやく扉がゆっくりと開き、蝋燭を手にした中年の男が顔を出した。男はフォンルゥの顔を見るなり眉間を寄せた。
「またお前か……」
「頼む、見てやってくれ、咳がひどくて止まらないんだ。胸も痛むらしい」
「金はあるのか?」
「いや……だがかならず払うから、頼む見てやってくれ」
 フォンルゥの必死の様子に、医者らしきその男は舌打ちをしてから、面倒くさそうに外へと出てきた。荷車まで歩み寄ると、蝋燭の明かりでシュイの姿を確認してから、その顔を覗き込み、指で目を開かせたりしてから、小さく溜息を吐くと、フォンルゥを見て首を振って見せた。
「もう無理だよ。何もすることは無い」
 彼は一言言ってから、家へと戻り始めた。
「待ってくれ! 中へ入れてもっとちゃんと見てくれ!」
「無駄だよ、もう手遅れだ。何もしてやれんよ……寿命だよ、寿命。悪いことは言わん。家に帰って静かに看取ってやることだ。それがじいさんにとってはいい事だよ」
「あんた医者だろう! 見捨てるつもりか!」
「乱暴はやめたまえ!」
掴みかかろうとするフォンルゥに、医者は大きな声を上げて抵抗した。この騒ぎに、酒場や他の家々から、何事かと人々が通りに現れた。
「何事だ!!」
そこへ兵士が2人駆け寄ってきたので、フォンルゥは仕方なく医者から手を離した。
「は……はい、この男が病人を診てくれと言って……断ったら乱暴を働こうとしたのです」
 医者は兵士に慌てて説明をした。兵士達はフォンルゥの方をジロジロと見た。
「病人ならば診てやればいいではないか」
「はあ……ですがもうその老人は手遅れで……何もしてやることがないので帰れと断った次第です……第一もう今まで2度も診てやっているのに、その治療費ももらっていないので、いくらなんでもこれ以上は……」
「どうかしたんですか? 病気の方ですか?」
 医者が兵士に説明をしている所で、兵士の後ろから若い男の声がした。現れた若い男のその姿に、医者もフォンルゥも、野次馬で見ていた町の者達も驚いて言葉を失った。
 なぜならその若者は、何かで染めたかというくらいに、背中まである真っ直ぐな髪が『水色』をしていたからだった。夜目にも眩しいくらいに鮮やかな水色だった。その上、精霊か何かのように美しい面立ちをしていた。異国の服を身に着けている。
「あ、ウェイライ様、何でもありません。城下町の視察はここまでにいたしましょう……城へお戻り下さい」
 兵士が慌ててその若者に恭しく頭を下げながら告げたが、若者はまだ興味があるというように、フォンルゥに近づこうとしていた。
「その荷車の方が病気なのですか? よろしければ私の国の薬を差し上げましょう……あれ? 貴方は……」
 ウェイライと呼ばれた若者が、フォンルゥの側まで来た所で、何かに気づいたように首を傾げた。
「フォンルゥ!」
 荷車から弱弱しい声がした。フォンルゥはその声に弾かれたように、慌てて荷車の取っ手を持つと、クルリと向きを変えて逃げるように走り出した。
「あ! 待ちなさい!」
 ウェイライが引きとめようと声を上げたが、フォンルゥは振り返ることなく、元来た道を駆け去っていってしまった。
「ウェイライ! 何事だ?」
「あ……ラウシャン様」
 後方より現れた金髪の年配の男に、ウェイライは一礼をして見せてから、まだ気になるというように、フォンルゥ達が去っていった方向を見つめた。
「今の男……我々と同属のような気がしたのですが……」
「同属? シーフォンということか? 何を寝ぼけたことを言っている」
「そうですよね……」
 ウェイライはまだ彼方を見つめていた。
「そんなはずはないですよね……」


「フォンルゥ……フォンルゥ……」
 がむしゃらに走るフォンルゥに、荷車の中からシュイが呼びかけたので、ようやく足が止まった。道の端に荷車を寄せてから、フォンルゥは振り返って荷車の中を見た。シュイが手を伸ばしているので、荷車の横へと移動して、その手を握り、荷車の中を覗きこんだ。
「フォンルゥ……さっきの方々は……シーフォンですね」
「多分……お前の両親……ツーシャン達から聞いたシーフォンに姿がよく似ていた。美しい容姿と、不思議な髪の色……それに……オレの中の本能が感じ取った」
 シュイはそれを聞いて小さく頷いた。そして深く息を吐く。
「そう……みつかってしまったのですね……では……一刻も早く逃げてください」
「ダメだ。お前がこんな体では、そう遠くにはいけない」
「大丈夫です……私はもう……」
「シュイ」
 フォンルゥが握るシュイの手は、ひどく冷たかった。ギュッと握っても、反応が余り無い。フォンルゥは不安になって、シュイの体を抱きしめた。堅く痩せ細った体。フォンルゥは誰よりも、この体を知っている。彼が生まれたときから知っていた。赤子だったシュイをこの腕に何度も抱いてあやした。シュイは次第に成長し、やがてその姿はフォンルゥを追い越して老いていった。シュイ達とフォンルゥの生きる時の流れは違う。いつかこうして別れが来ることは分かっていた。フォンルゥを守り育ててくれたシュイの祖父母も、父母も、みんな年老いて先に逝ってしまった。たった一人になったシュイも、今逝こうとしている。
「フォンルゥ……私は貴方を愛することが出来て、本当に幸せでした。何も悔いはないと……ただあるとすれば、貴方を一人ぼっちにしてしまう事だけだと思っていました……でも……話でしか聞いた事の無いシーフォンに出会って……今初めて私の気持ちの奥底にあった思いに気づきました……私達の故郷……エルマーンに……一度で良いから行ってみたかった……竜に乗るシーフォンが治める国……私の民族・アルピンがたくさん住むという国……エルマーン」
「行こう! シュイ……オレがお前を連れて行こう」
「フォンルゥ……貴方が国に戻ったら、どんな目に合わされるか分かりません……どうか生きて……どうか独りになっても、強く生きてください……貴方はこの世界で最も強い民、太古の血族シーフォンなのですから……その誇りを持って強く生きてください……私の……フォンルゥ」
「シュイ! オレを置いて逝くな!! シュイ! シュイ――――!!」
 星空の下、フォンルゥの悲痛な声だけが響き渡っていた。


© 2016 Miki Iida All rights reserved.