ビジネスマン的恋愛事情 〜海の向こうから来た男〜

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 翌朝、西崎はいつもよりも少しばかり寝坊してしまった。
 柴田が目覚ましを止めてしまっていたせいでもあった。
 ぼんやりと目を覚ましてあたりを見まわした。ベッドの隣には、柴田の姿はなく、閉じられたカーテンの隙間から零れる光りで、今が朝なのがわかった。時計を見ると、8時を指していた。
「わ……遅刻する」
 そう思って起き上がろうとした時、寝室のドアが開いて、柴田が入ってきた。
「なんだ……もう起きたのか」
 柴田はすでにYシャツとスラックスを着ていて、まだ結んでいないネクタイを首に掛けていた。
「どうして起こしてくれなかったんです」
「お前を休ませようと思ってね」
「……大丈夫です。どこもどうもありませんから……出勤します」
「いや……疲れが溜まっているんだよ。たまには休みなさい……第一、今朝だって、いつものお前なら、目覚ましが鳴らなくても起きれるはずだろう?私がベッドから起き上がっても気づかずにグッスリ眠っていたくせに……やっぱり疲れているんだよ、先週から随分ハードスケジュールだったし……どうせ今日は役員会で、私達上司は1日いないし……特に急な仕事も無いだろう?」
「でも……」
「これは命令だ! とにかく休め!! 言う事を聞けないのなら、私も今度からお前の言う事を聞かないぞ」
「ううっ……」
 柴田は一度言い出したら、絶対聞く耳持たない。西崎は、仕方なく了承した。
「じゃあ、行ってくるよ……今日は一日のんびり過ごしなさい」
 柴田は、西崎の頬に軽くキスをすると出て行った。
 本当は、なにがなんでも休みたくなんかなかった。これではまるで、強姦されたショックで休んでいるみたいではないか。
 乙女じゃないんだから……と思うと、ガックリとうなだれた。
 あんな事のあった翌日に休むなんて、遠山に知られたらなんと思われる事だろう……西崎は、それを考えただけでも、胃が痛くなる思いがした。だけど、体調不良と思って心配する柴田に、何も言い訳ができないでいた。
 昨日顔色が悪かったのは、強姦されかかって、心身ともにボロボロだったからで、病気でもなんでもないのだとは言えなかった。
「ああ〜〜〜……なさけねぇ〜〜〜〜!!!」
 西崎はゴロリとベッドに大の字になると、大きな声をあげた。


 その夜、仕事から帰ってきた柴田を、西崎はごちそうを作って出迎えた。
「一体どうしたんだい」と笑う柴田に、「暇で、他にする事がなかったんだ」と西崎は笑って答えた。
 いつもの西崎に戻っていたので、柴田はホッとした。
 食事が終わった後、二人はソファに座って、コーヒーを飲みながらのんびりとくつろいだ。
「今日人事が決まったよ……知りたい?」
 柴田がニッコリと笑っていった。その笑顔から、とりあえず柴田や西崎が、シリコンバレーに行く事はなさそうだな……と思った。
「そんな機密……オレに話していいの?」
「ダメ」
 柴田は笑って答えた。西崎は、チェッという顔をしてから笑った。
「でも……お前の昇進が決まったことだけは教えておくよ」
「え?」
「正式な辞令は、来週の月曜になると思うけど……聡史は課長に昇進が決まったよ」
「ええ! ……うそ」
「本当」
 柴田は、我が事のように嬉しそうだった。西崎ももちろん嬉しかったが、なんだか嘘のように思えていた。
「週末は、お祝いをしような」
「ああ……ありがとう」
 二人は何度もキスを交わした。


 翌日出社すると、机の上には、いくつも書類が溜まっていた。西崎が病欠なんてめずらしいので、女性社員達が心配するかのように、声をかけてきた。
 西崎は、ニッコリ笑ってそれに答えたが、書類の処理で、一日追われる事になった。
 夕方になって、ちょっと一息ついた頃、一番会いたくない男が姿を現した。
「今夜、柴田と3人で飲みたいんだが……付き合ってくれるだろう?」
 遠山に言われて「イヤだ」と言いたかったが、柴田も一緒かと思うと、簡単に断る事ができなかった。そこへ何も知らない柴田までやってきた。
「先輩は、明日の午前中の飛行機でアメリカに戻るので、明日は出社しないんだ……今夜がゆっくり話せる最後の夜だからね……西崎、少しくらいなら大丈夫だろう? 先輩が君に礼をしたいそうなんだ」
『礼なんか結構です』とキッパリ言いたい所だったが、柴田の口から言われたのでは、何も言い様が無かった。
『作戦だな』と思って、遠山をジロリと見た。
「彼、ちょっとオーバーワークで、昨日休んだんだよ」
 柴田が遠山にそう言ったので、西崎はギョッとした。
「へえ……」
 遠山は、少し驚いた後ニヤリと笑って西崎を見た。
「昨日、ダウンしちゃったんだ」
 遠山は今にも笑い出してしまいそうな顔で、ニヤニヤしながら西崎を見た。
「ええ……心労が重なったもんで……」
 西崎は、半ばヤケクソ気味に口を尖らせながら答えた。
「思っていたより繊細なんだな」
「ええ……深窓の令嬢並に繊細ですよ」
 遠山の更なるからかいの言葉に、西崎はムッとなって答えた。
「二人とも……なんだか仲良くなったみたいだな」
 柴田が、まったく何の疑いも無く言ったので、西崎はとんでもないという顔で否定しようとした。
「ああ、彼とはとても気が合ってね……なあ、西崎くん」
「……ええ……そうですね」
 西崎はかなりかなり不本意ながら、相槌をうった。
「それは良かった。それじゃ今夜……8時頃なら大丈夫かい?」
「はい」
 柴田は満足そうな顔で、西崎にアイコンタクトを送って、遠山と共に去っていった。
『とっとと、アメリカに帰れ!!』
 西崎は心の中で毒づいた。


 その夜の食事会は、西崎にはとても辛いものだった。
 遠山が、西崎をからかって何を言い出すか解らなかったし、柴田は遠山に対して、まったく信頼しきっていて、そんな柴田に悟られない様にする為に、西崎はかなり気を遣っていた。
またこれで心労が重なってダウンしてしまいそうだと思った。
 柴田は、自分が遠山からシリコンバレー行きを勧誘された事は、西崎に知られていないと思っている。だからその話題になるのをさけているのが、西崎には解っていた。
 そして解っているだけに、柴田にそれを悟られまいと更に気を遣った。ましてや、二人の関係を遠山にバラした事を、柴田に知られるわけにはいかなかった。
 遠山は、その二人の心中を解っていて、とてもおもしろがっているようだ。西崎は憎々しく思った。
 柴田がトイレに行き席をはずした時、おもむろに遠山がククククッと笑い出した。
「……何がおもしろいんですか?」
 西崎は、ムカムカしながら問い掛けた。
「いや……お前がおもしろい」
「放っておいてください」
「お前をシリコンバレーに連れて行くと言って、柴田をイジメてもよかったんだが……オレもあいつの事はかわいいと思っているからな、なんかかわいそうだろ?お前をイジメた方がおもしろい」
「……大人気無いとは思いませんか?」
「思うよ……大人気無いと思うけど、楽しくて仕方ない」
「明日お帰りになるのが残念です」
 西崎は、無駄とは思いつつも、せいいっぱいの嫌味を言ったつもりだった。しかしやはり、この男には、まったく通じない様で、遠山は目を細めてニコニコと笑った。
「お前に会いに、また来るよ」
「結構ですっっっ!!!!」
 西崎は思わず大きな声をあげてしまった。ハッとなって、慌てて辺りを見まわしたが、それぞれのテーブルで賑わっていて、それほどこちらを誰も気にしていなかった。柴田の姿もまだ見えない。
 ちょっとホッとなりつつも、恨めしげな顔で遠山を見た。遠山はあいかわらずニコニコと笑っている。
「君の味が忘れられないんでね……今度はもっとジックリ味合わせてもらうよ」
「なっっ……ΦΣΔ×Ω!!!!!……」
 西崎は、あまりの驚きと怒りで、言葉にならずに、ただ口をパクパクとさせて、ワナワナと肩をふるわせた。
「ごめんごめん……なんかトイレが混んでて……ん? どうかしたか?」
「いや……西崎君がお疲れのようだから、そろそろお開きにしようか?」
 遠山は、ニッコリとご機嫌な顔で柴田に言った。
「西崎……大丈夫か?そういえば顔色悪いぞ」
「大丈夫です……」


 3人は店を出た所で向き合って最後の挨拶をかわした。
「それでは先輩、お元気で……年に1度くらいは遊びにいらしてください」
「そうだな。お前こそ、1度くらいはシリコンバレーに遊びにこいよ……西崎君もぜひ一緒に」
「そうですね」
 柴田はニッコリと笑うと、チラリと西崎を見た。西崎は、少しうつむきかげんで、黙って立っていた。
「西崎君、色々お世話になったね……君みたいな将来のある部下がいて、柴田が本当にうらやましいよ」
「……ありがとうございます」
 西崎は、義務的に返事をした。
「じゃあ……またな」
 遠山はそう言うと、手を差し出したので、柴田は握手を交わした。西崎にも手を差し出したので、一瞬躊躇したが、仕方なく握手をした。その時、遠山が西崎にウィンクをしたので、西崎は目を反らした。
「西崎、タクシーで送るよ……一緒に帰ろう」
「ハイ……ありがとうございます」
 西崎は、おとなしく柴田に従うように一緒にタクシーに乗り込んだ。車の中から、もう1度遠山に向かって会釈すると、二人は先にその場を去った。
 遠山は、実に楽しそうにそれを見送っていた。
「聡史……大丈夫か? まだ本調子じゃなかったのに、無理に付き合わせてすまなかったな……だけど……おかげで、先輩もとてもご機嫌だったし良かったよ。お前、随分気に入られているんだな」
「彰……とりあえず、その話はまた今度にしてくれないか……悪いけど」
「あ……うん」
 西崎にとって、悪夢以外の何物でもない日々は、ようやく去っていった。だけど諸悪の根源は消えていないんだ……と、心の奥でつぶやいた。
 西崎は、これからまだまだ波瀾が起きそうな予感がしていた。
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