ビジネスマン的恋愛事情 〜海の向こうから来た男〜

ススム | モクジ

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 それはすっかり日常化してきた風景だった。
 西崎がキッチンで朝食を作り、柴田がベッドメイクをして、掃除機をかけた。
 二人が同棲を始めて2ヶ月余り。
 互いに得意な事を進んで担当する内に、それが日常になっていた。
「彰、朝食出来たよ」
「ああ、こっちも終わった所だ」
 柴田が掃除機を片付けながら返事をした。西崎は、エプロンを外して椅子の背もたれに掛けると、自分の席に座る。 柴田は掃除機を片付け終わって、手を洗って戻ってきた。
「ん……今日は和食の日だったな」
 柴田は朝食の並んだテーブルを眺めて嬉しそうに目を細めた。
「彰の好きな大根と油揚げのお味噌汁だよ」
「ああ」
 柴田が嬉しそうに笑ったので、西崎もつられてニコニコとした。
「彰は和食大好きなんだから、毎日朝食は和食にしてもいいんだけど」
「ダメダメ、和食は手間がかかるんだから、毎朝大変だろう? 1日おきでいいよ……それにお前はずっとパン党だったんだろ?」
「いや、別にパン党という訳では……ずっと一人暮しだったから、朝から和食って、一人分だと面倒だったんで、ずっとパンだっただけですよ……味噌汁を一人分なんて作らないでしょ? 残っても困るし……」
「ほうれん草と小松菜のおひたし、ブリの煮付け、大根と油揚げの味噌汁……お前……良い奥さんになれるぞ」
「もう良い奥さんになっているつもりですが?」
 ふたりはクスクスと笑い合うと、軽く口付けを交わした。


「じゃあ、行ってきます」
「ん、いってらっしゃい……あ、聡史、聡史」
「はい?」
 出かけようとした西崎を、柴田が呼びとめて手招きをした。
「そんなに慌てなくてもいいだろう」
 柴田はそう言いながら、西崎のネクタイを解いて結び直した。
「あ……ごめん、途中でクリーニング店に寄るつもりだったから、急がないとと思って……」
「いつも早めに出ているんだから大丈夫だよ……何も無理に私より早く会社に着く必要は無いんだから」
「まあ……そうなんですけど……」
「はい、いいよ」
 キュッとネクタイを締め終わると、ポンと西崎の胸を叩いて柴田はニッコリと笑った。
「ん? なんだ?」
「いえ……こういう時、しみじみと幸せを実感するなぁ〜って……新婚さんみたいですよね」
「なにバカな事を言ってる……ほら本当に遅れるぞ」
「じゃあ、後で」
 チュッと柴田にキスをして、西崎は家を出た。
 同棲を始めて以来、西崎は毎朝柴田より20分早く家を出た。 一駅先の飯田橋まで歩いて、そこから地下鉄に乗っていた。
 その事自体に特に何か意味があるわけではなかった。朝から通勤電車で、会社の誰かに会うという訳でもない。
 ただ柴田と同じ神楽坂の駅から、乗り込む事を避けているだけだ。それは西崎が勝手にしている事で、柴田も薄々と気づいていたが、特に何も言わなかった。
 途中クリーニング店に寄った後、いつものように飯田橋から地下鉄に乗り、いつものように会社へと出勤した。
 西崎が、自分のPCを立ち上げて、メールチェックをやっている頃に、柴田が出勤してくる。
「おはようございます」
「おはよう」
あいさつを交わす二人は、すでに上司と部下の顔になっていた。
「西崎」
「はい」
 柴田に呼ばれて、西崎は柴田のデスクへと向った。
「今日の午後のミーティングはどうなってる?」
「はい、今レジュメを作っています。出来たら先にお見せします」
「解った……去年の実績との対比表もつけてほしいんだが」
「はい、解りました」
 西崎は軽く頭を下げると、自分のデスクへと戻った。
「あ、西崎」
 柴田が再び西崎を呼びながら立ちあがると、西崎の方へと歩いてきた。西崎も慌てて立ちあがった。
「なんでしょうか?」
「いや、今、去年の実績をと言ったけど、資料はあるのかな? と思って……」
「ああ……いえ、今から調べます」
「資料室にあると思うんだが……」
「ああ……ではちょっと見てきます」
「私も行こう」
「え? いいですよ……大丈夫です」
「ああ、私もちょっと必要な書類があるから……」
「じゃあ行きましょう」
 西崎はニッコリと笑って先に歩き出した。廊下に出て、資料室へと向う。
 西崎は資料室のドアの前に立つと、セキュリティキーボックスに暗証番号を入力して、自分のIDカードを挿し込んだ。ロックが外れたのを確認すると、ドアを開けて中へと入った。柴田もその後に続いた。
 整然と並んでいるたくさんの書類棚の番号を確認しながら、必要な資料のある棚を探した。
「この棚じゃないかな?」
 柴田がひとつの棚を指して言うと、棚の上から目で追って探しはじめた。
「ん? なんだ?」
 西崎が探している様子ではないようなので、柴田はふと不思議に思って西崎の方を見た。西崎はニコニコと笑いながら、柴田を見ている。
「いえ、社内でこんな風に二人っきりになれるなんてめったにないじゃないですか……ちょっとドキドキしません?」
「……バカ」
 柴田は少し赤くなって、『部長』の仮面が取れてしまった。
「なんだか悪さしたくなりますね」
「……するなよ、ここは防犯カメラが動いているんだからな」
「チェッ」
 西崎がとても残念そうな顔をしたので、柴田は思わず吹き出した。
「ほら、真面目に探せよ」
「は〜い」
 西崎はとりあえず、それらしいファイルをいくつか手に取ると、パラパラとめくった。
「あ、これですか?」
「ああ……それだな」
「えっと……G−3863と……」
 崎は資料の番号を控えると、資料室の奥にあるパソコンへと向った。柴田はまだ他に何か探しているようだ。
 電源が点いたままのパソコン画面に、パスワードと自分のID番号を入力すると、さきほどの資料番号を入力して呼び出した。
 持ってきたメモリを挿し込んで、そこへコピーをする。
「コピー完了っと……彰、こっちは終わったけど……」
「ああ、私もみつけた」
 柴田も西崎の側に来ると、キーボードを叩いて自分の必要な資料をコピーした。
「これでよしと……」
 柴田は小さく呟くと、クルリと西崎の方を向いて、その鼻をギュッとつまんだ。
「イテテテッ」
「会社では、『柴田部長』だろう」
 柴田はそう言って、クスリと笑いながら手を離した。
「すみませんでした」
 西崎はちょっと涙目になりながら少し赤くなった鼻を擦った。
「ほら、戻るぞ」
「はい」
 柴田は尚も笑いを堪えながら、先に歩き出した。西崎も慌てて後を追う。
「楽しんでいるでしょ?」
「……まあな」
「帰ったら仕返ししますから、覚えておいてくださいね」
「バカ!」
 西崎の言い方が、少し卑らしかったので、柴田は赤くなって西崎の横腹を小突いた。柴田はこれ以上西崎に悪さをされるのを恐れるように、慌てて外へと先に出た。
「ひどいな〜」
 西崎は苦笑しながら後に続いて外へと出た。見ると柴田はキリリッと元の顔に戻っている。
「柴田!」
 そこへ突然柴田を呼ぶ声がして、二人は声のする方を見た。10M程先のエレベーター付近に立つ男性の姿があった。
「遠山先輩?」
 柴田が驚いたように言ったので、西崎は柴田とその男とを交互に見た。男は嬉しそうな笑顔をたたえてこちらへゆっくりと歩いてくる。
「遠山先輩!」
「よお! 元気そうだな」
「いつこちらへ?」
「昨日だ……お前はあんまり変わっていないな」
「先輩こそ……あ、西崎、こちらアメリカのシリコンバレー支社の営業本部長、遠山さんだ……先輩、こちらは私の片腕になってくれている西崎君」
「はじめまして、西崎です。よろしくお願いします」
 西崎は、深々と頭を下げた。
「遠山だ。よろしく」
 彼はそう言って右手を差し出したので、西崎は慌てて握手に答えた。
 思わずジッと遠山を見ると、彼が西崎を値踏みしているような視線を向けている事に気がついて、西崎は少し不快感を覚えた。
 それに柴田の態度もとても気になる。こんなに嬉しそうな笑顔を、自分以外の誰かに向けるなんて初めてだ。
 顔には出さなかったが、西崎は少しジェラシーを感じていた。
「今回はどんな用事で? どれくらいいらっしゃるんですか?」
「ん? もうすぐ株主総会と役員会議があるだろう? 支社長のお供でね」
「そうなんですか」
「今夜はどうだ? 一杯付き合わないか? 久しぶりで色々と話したい事もあるしな」
「ええ、もちろん喜んで……」
 柴田は嬉しそうにそう答えながら、ハッとなって思わずチラリと西崎の方を見た。
 その一瞬の仕草を、遠山は見逃さなかったようだ。
「ん? 柴田、どうかしたか?」
「あ……いえ、なんでもありません」
 柴田が慌てて誤魔化そうとしたのを、西崎も解っていてペコリと頭を二人に向けて下げた。
「それでは、オレは仕事に戻りますので」
「あ……ああ、じゃあ、さっきの資料の件よろしく」
 柴田は内心、西崎に謝りながらも素知らぬ素振りをした。
 西崎は、クルリと向きを変えると、オフィスへと向った。
「あ! 西崎君」
 その後姿に、遠山が声をかけたので、当の西崎も、柴田も驚いた。
「……なんでしょうか?」
 西崎は立ち止まって振りかえると、遠山を見た。遠山はニッコリと微笑んでみせた。
「良かったら、今夜、君も付き合わないかい?」
「え!?」
 唐突な言葉に、西崎はギョッとなって、思わず柴田の顔を見た。柴田もとまどっているようだ。
「ですが……オレはお邪魔かと……」
「いや、人数は多いほうが楽しいし……柴田が部下をどんな風に育てているのかも興味があるからね……ぜひ来てほしいんだが」
 遠山の目が、何だか挑戦的に見えた。
「あ……うん、そうだな……西崎、ぜひ君も来ると良いよ」
 柴田はなんだかよく解らないが、むしろ西崎が一緒の方が気兼ね無いので、急いで誘いの言葉を送った。
 西崎はしばらくの間遠山とみつめあった後、何かを考える様に目を伏せて、コクリと頷いて「解りました。ご一緒させていただきます」と答えた。
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