カリフォルニフ・ドリーム

ススム | モクジ

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 見上げると真っ青な空が広がる。
 春のカリフォルニアの空は、どこまでも高く、明るくて、気持ち良いなぁ……とぼんやりと見上げながら思った。
 空の色が違う。
 日本とアメリカでは、こんなにも空の色が違うのだろうか? そう思ったが、ふと自分が知っているのは東京の空の色だけだったという事を思い出して苦笑した。
 東京の空はとても低い所にある。それにいつも霞みが掛かったような薄い青色の空をしている。
 そういえば子供の頃に、1度だけ家族旅行で行った沖縄の空は、とても綺麗な色をしていたように思う。この空の色に近かっただろうか?
 彼はずっとそんな事をぼんやりと考えながら、道の側にある公園のベンチに座って空を見上げていた。
 ずっと……だ。
 どれくらいかというと、もうかれこれ7時間もこうやっている。
 朝からずっと。あと2〜3時間でこの青い空は、茜色に変わるだろう。そして2度目の夜が来る。
 深い溜息をついた。
 昨夜はずっと歩き続けた。夜が開けるまでずっとひたすら歩き続けた。多分方角は間違っていないのだと思うけど、確かめる術は無い。記憶の中にある地図と住所によれば、方角はこっちの方で、通りの名前もこの目の前を走る道のはずなのだ。しかしそれは本当にアバウトなもので、見知らぬはじめての土地で、そんな記憶を頼りに行き先に辿りつくなど不可能に近いものだった。途方に暮れて、歩きつかれて、公園のベンチに腰を下ろしたのは、今朝の事。それからもうまったく動けなくなってしまった。
 疲れた……お腹も空いた……これからどうすればいいのか、何も考えられなかった。
 池脇司郎は、その大きな体をベンチに持たれかけて、長い足を伸ばして空を見上げる。アメリカに独りでやって来た。
 日本で大学を無事に卒業して、長年の夢を叶える為に、知合いのツテを頼ってやってきた。到着したのは昨日の昼頃だった。目的地へと向うためのバスを探して、空港をウロウロとしていたら、親切に声を掛けてくれた中年のカップルが居た。方向が一緒だから途中まで車に乗せてくれると言ってくれた。言われるままについていき、車に乗って、しばらくなごやかにドライブをして、そしてナイフで脅されて、持っていたサイフもカバンも何もかも奪われて、身ひとつで放り出された。
「ここからあんたの行きたいって言ってた所までは近いから、がんばれば辿りつけるわよ」
 去り際に車の窓を開けてパスポートだけを投げてよこした、一見人が良さそうに見えたおばさんが、笑いながらそう言い残した。
 その時は、自分の馬鹿さ加減に呆れつつ、それでもしばらく歩いたら、覚えのある名前の通りに出たので、本当にどうにかなる気になった。
 とりあえず辿りつければどうにかなると思った。
 警察にはそれから届ければ良いとも思った。金も何も無い。自分を証明出来るものは唯一情けで返してくれたパスポートだけ。そして頼れるのは、これから厄介になる予定のハドソン氏だけ。
 しかしその考えすらやはり甘かったのだと言う事を身をもって知ったのは、今朝方、ようやく空が白みかけた頃だ。
 一晩中歩いた。いや、車から放り出されてからだから、もう10時間以上歩いている。もうクタクタだし、空腹で死にそうだった。アメリカは広い。新宿から渋谷まで歩くのとはまったく訳が違った。
 まっすぐな道、広い道、家々もあるし、人通りや車の通りもあるのだけど、それは日本の風景とはまったく違うものだった。
 もうこれからどうすればいいのか頭が回らない。せめて銀行でもあれば、事前に作っておいた口座に、当面の生活費を入れてあるから引出せるのだけど、その銀行もみつけられない。
 このまま餓死するのはいやだなぁ〜とぼんやりと思った。
 間違いなく、ハドソン氏の家の近くまでは来ているはずなのに、番地を覚えていない。こんなに1区画が広いなんて思わなかったから、ここに来て番地の1番の違いでも、まったくたどりつけないのだという事を知った。人に尋ねても解らない。

「君……ここで何やってるの?」
 ふいに声を掛けられたので、視線をそちらへと向けた。
 金髪の若い男性がこちらを覗きこむようにして立っていた。サングラスを掛けているのでその表情は伺えなかった。
「え、あの、道に迷って……」
 司郎は、慌てて答えながら体を起こして姿勢を正した。さすがに1度騙されて、相手を警戒するようになった。もう取られるものなんか何も無いとは思ったが、ああ、命があったかとふと考える。
「君、日本人だろ?」
 そう言われて、ようやくその金髪の男性が、先程から日本語で話しかけているのだと言う事に気がついた。とても流暢な日本語だ。
「あ、そうですけど……それが……なにか?」
「旅行者って感じでもないけど……朝からずっとその格好で、空を見上げていただろう?」
 彼はクスクスと笑いながらサングラスを外した。薄い茶色の瞳は、とても形の良いほどよい大きさで、長い睫毛に縁取られていた。とても美人だとふと思って、その相手を司郎はぼんやりと見つめてしまった。
「オレも日本人なんだよ。良かったら何か手助けするよ。道に迷ったって……どこに行くんだい?」
「え、あの……」
 司郎はキョトンとなって彼をみつめながら、それでも断ろうと思った時に、盛大に腹の虫が鳴り響いてしまった。


 テーブルの向いに座って、まだクククッと笑いつづけているその相手を、司郎は複雑な面持ちでみつめていた。
 随分笑い上戸だと思った。司郎の盛大な腹の虫を聞いてから、ずっと笑いつづけている。彼の真っ赤なジャガーの中でもずっと笑っていた。公園からそう遠く無いレストランに着くまでの間笑いつづけて、店の中に入るまでも笑いつづけて、テーブルに着いてからも笑いつづけている。
 司郎は、彼に腕を引かれて、公園脇に止めてあった彼の車(派手な赤いジャガーだ)に乗せられて、この店まで連れてこられていた。1度騙されたというのに、また大人しく着いて来てしまった。
 それというのも、彼があんまり大爆笑するので、それに圧倒させられて、断る切っ掛けが掴めなかった。どこに連れて行かれるのだろう? という疑問よりも、なんでそんなに笑うのだろうと呆気に取られていた。
「ごめんごめん。何食べる? お腹空いてるんだろう? クククッ……日本人向きの味付けではないけど、ここの店のはまだマシだから……クククッ……まあお腹空いてるなら、なんでも食べられるだろう? ククククッ……」
「あ、あの……だけどオレ、お金持ってないし……あの……結構ですから」
 我に返って、慌てて立ちあがろうとする司郎を彼が制した。
「解ってるよ。解ってる……大丈夫だから、気にしないで食べてよ。ククク……」
「いえ、でも……」
「どうせカバンを取られたか、サイフをスラれたんだろ?」
 涙を拭いながら、彼がそう言ったので驚いた。
「騙されそうな顔をしているもん……君」
 そう付け加えられて、司郎はカッと赤くなる。
「オレ、こんな外見だけど、正真証明の日本人だから……オレ、氷上慎吾、東京出身……よろしく」
 そう言って彼が右手を差し出したので、反射的に握手に答えていた。
「あの、池脇司郎です」
「司郎か……まあとりあえずなんか食べなよ」
 氷上と名乗ったその男は、ウエイトレスを呼びつけると、勝手に色々と注文をした。その様子を、司郎は途方に暮れながらもみつめていた。
 肩に掛かるくらいの少し長めのウェーブの掛かった金髪といい、その西洋人独特の綺麗な顔立ちと良い、外見はどう見たって日本人には見えない。それなのに、彼の話す日本語はとても流暢で、日本語を話す外国人独特の訛りはまったくなかった。
 とても不思議だった。
 そんな事を考えて見つめていると、彼がこちらを向いて視線が合い、ニッコリと微笑まれる。さっき「美人だ」と思ったけど、やはりとても美人だ。男に美人だなんておかしいだろうか?
「どうした? ああ……そうだよね、いくら君でも、オレの事怪しいって思うよね」
「いくら君でもって……ひどい言い方だな」
 司郎は少し不満気に呟いた。それを聞いて氷上がまたクスクスと笑う。
「ごめんごめん、だけど、さっきの話……騙されて持ち物を取られたっての当っているだろう?」
 それは確かにそうなので何も言い返せない。ウッと言葉に詰り、口を強く結んで目を伏せた。
「オレ、仕事の用があって、あの公園の前の道を朝と昼とさっきと3回通ったんだよ。そしたらさ、君があのベンチで同じ格好でずっと座っていたからさ。気になっちゃったんだ。それで声を掛けたって訳……オレも大概おせっかいだと言われるんだけど……同じ日本人同士だしね。それに次に見た時、死なれていても夢見が悪いし……」
 彼はペロリと舌を出して笑った。
 そこへウエイトレスが、パスタやハンバーガーが山盛りに載った皿を運んできた。
「どうぞ」
 氷上が司郎に微笑んで言ったので、司郎は料理と氷上の顔を交互にみつめてから、ゴクリと唾を飲み込んだ。一瞬迷ったが、体が言う事を聞かなかった。気がつくとフォークを掴んで、ムシャムシャと食べ始めていた。その様子を、氷上はコーヒーを飲みながら微笑ましく眺めている。
「司郎はいくつなんだい?」
「22です」
「そう、じゃあ大学を卒業したばかりなんだ。随分大きな体をしているけど、何かスポーツをやっていたの?」
「高校までは野球を……大学では何もやってないです」
 ガツガツと食べながらも、氷上の質問に答えた。
「ここには旅行で?」
「いえ、氷上さんは……こちらに住んでるんですか?」
 彼が質問を返してきたので、氷上は眉を上げて楽しそうな顔になった。
「うん、18才の時にこっちに来たから……もうかれこれ8年になるかな。司郎は、じゃあ留学か何かで来たんだ」
「仕事をしに……いや、勉強もあるかな。やりたい仕事があって……その夢を叶える為に来たんです」
 パスタを頬張りながら答えた司郎を、氷上は嬉しそうに笑ってポンと手を叩いた。
「それじゃあオレと一緒だな。そうかぁ〜……へえ、そうなんだ」
「氷上さんも一人でアメリカに来たんですか? なんの仕事をしているんですか?」
「うん、トム・スペイシー・スタジオっていうSFX工房で働いてるんだ。分からないかもしれないけど映画関係の仕事だよ。SFXって言葉は聞いた事あるだろう?」
 それを聞いて司郎は咽びそうになった。
 ガタンッと立ちあがると「えええ!!」と驚きの声を上げていた。
 驚いたのは氷上のほうで、目を真ん丸く開いて、口をポカンと開いて、立ち上がって驚きの声を上げている司郎をみつめていた。
「氷上さん、トム・スペイシー・スタジオの方なんですか?!」
「え? あ、知ってるの?」
 司郎の勢いに押されながら、氷上がコクリと頷いて答えた。
「知ってるも何も……」
 そこまで声を大にして言った所で、周囲の視線に気がついてハッとなった。真っ赤になって、いそいそと椅子に座る。コーラをゴクゴクと飲んでから、一息ついて改めて氷上の顔をジッと見た。
「オレ、そこで働きたくてカリフォルニアに来たんです」
 司郎は姿勢を正して、とても真面目な顔で言った。それを聞いて、氷上は「おや」と小さく呟いて眉を上げた。
「誰かツテでもあるの?」
「オレ、美大生だったんです。それで大学の講師からの紹介で、ゲーリー・ハドソンさんって方を訪ねてここまで来たんです」
「ゲーリー・ハドソン? なんか聞いた事あるな……」
「その方の家にホームステイさせてもらうんですけど、なんでもその方の知合いがトム・スペイシー・スタジオのアーティストだっていうので……ぜひ紹介してもらおうと思っているんです。まさかそれが氷上さんって、都合の良い話しじゃないですよね?」
 司郎は言ってアハハと笑ったが、内心はドキドキしていた。そうだとしたら、もうこれは運命としか思えない。そう願いたい。それならば強盗に遭った事も、このチャンスの為の必然だと思えば、すべて許す事が出来ると思った。
「確かにオレは、トム・スペイシー・スタジオのアーティストだけどさ。そのハドソン氏とは友達でもなんでも無いし……オレじゃないと思うけど……」
 氷上は答えながらも、考え込むように腕組みをした。
 司郎は氷上の言葉を聞いて、ちょっとガッカリとした。そうだ、そんなに上手い話な訳が無いと思って、ため息をつくと残りのポテトをむしゃむしゃと食べた。 しばらくの間の後、氷上が突然閃いた様に「あ!」と声を上げた。
「え?」
 司郎もおもわずつられて声を上げた。
「多分、オレの叔父さんの現在の恋人の名前が、その人だった気がする」
「え?」
 司郎はもう1度聞き返してしまった。しかし氷上は気にせずにニコニコ顔で話を続けた。
「オレの叔父さんもトム・スペイシー・スタジオでアーティストとして働いているんだよ……いやあ、それにしてもすごい偶然だよね!」
 感激したように大喜びをする氷上とは対照的に、司郎は困惑した顔で何度も首を傾げていた。
「どうした?」
「え? あ、いや……すみません。さっき何っていいました? ハドソン氏の恋人がどうとかって……」
「うん、多分……多分なんだけどさ、オレの叔父さんの現在の恋人の名前って、ゲーリー・ハドソンだったと思うんだよ。別れていなければね」
「叔父さんって……男ですよね?」
「そうだよ?」
 あまりにも氷上がケロリとした顔をしているので、司郎は困惑の色を隠せない。
「え? 何か変な事言った?」
 氷上の問いに、司郎は少し考えてからコクリと頷いた。しかし氷上は首を傾げる。
「あの、その話だと、ハドソン氏って同性愛者だと言っているように聞こえるんですけど……」
「うん、ゲイだよ」
 アッサリとまたもや答えられてしまった。
 司郎は口をポカンと開けて、返事が出来ずにいた。その様子を見て氷上は少し首を傾げた後、クスクスと笑う。
「別に日本でだって、そんなに珍しい話しじゃないだろ? 君、どこの人?」
「東京……です。一応」
「じゃあ尚更だ。何? 今まで周りにいなかったの? そういう人」
 そう言われて、司郎はちょっと口篭もった。
 芸術家にゲイが多い……とはよく言われる。美大に入るまでは、そんな事考えてもみなかった。大学に入ってみると、そういう話がどんどん耳に入ってきた。「●●教授が……」とか「2年の○▲先輩が……」とか、もうそれはたくさん! だが、良いのか悪いのか、不思議と司郎に直接関わる人物の中にはいなかった。だからそれは『噂』だけのもので、こんなに身近に、それもまるで「お天気の話題」並に、普通に言われるのは初めてだった。
「オレの知人の中にはいませんでした」
「そお……で? 司郎は偏見の人?」
「え? あ、いや、そんなんじゃないです」
「なら良かった」
 氷上がそう言ってニッコリと笑ったので『まさかこの人も……』なんて思った。
「ほら、ハドソン氏の家にホームステイするって事になるとさ、=ゲイの家庭に一緒に住むって事になるからさ」
 司郎の疑問を叩き消すように、恐ろしい事実を突きつけてきたので、思わずひっくり返りそうになってしまった。
「司郎が偏見ないなら大丈夫だよね?」
 司郎は大きく目を開いて、頷く事ができないまま固まってしまった。
 ゲイの家庭にホームステイ
 すっごい事件だ。
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