物心をついたときに、はじめて『母親』という言葉を知った。それまで「なぜボクには母親がいないの?」という疑問を持ったことも無く、それ以後も聞くことは無かった。
 幼心にそれを父に聞いてはいけない様な気がしていたからだ。
 父は優しい人だった。いつも抱きしめてくれていた。いつも側に居てくれた。だから寂しくは無かった。

「フェイワン様、今日からご一緒に剣術を学びますタンレン様です。タンレン様はフェイワン様の従兄弟になられます」
 ある日フェイワンの教育係が、1人の少年を連れてきた。緑の髪の同じくらいの年頃の少年だった。はじめて見る自分以外の子供だった。
「従兄弟?」
 フェイワンは、ニッコリと笑う少年をみつめながら、チラリと教育係に視線を送って首をかしげた。
「はい……国王陛下の妹君になられますルイラン様のご長子になられますので、フェイワン様とは従兄弟同士となります」
 教育係は言葉を選ぶようにして説明した。彼が『母親』という単語をわざと使わなかったことは、この時のフェイワンにはすぐに気づいていた。皆が皆、なぜかその言葉について、とても神経質になっていることを知っている。誰もがそれをフェイワンに知られないようにしていることを感じていた。
 フェイワンはしばらく考えてから、目の前の少年に向かって右手を差し出した。
「よろしく」
「よろしくお願いします」
 ニッコリと明るい笑顔で握手に答える少年に、フェイワンはすぐに好感を持つことが出来た。

「シーフォンにはタンレン以外にも子供はたくさん居るのか?」
「ええ、いますよ。そんなにたくさんではありませんけどね。ボクには妹と弟が居ますし……ああ、それにボク達よりも少しだけ歳が下になりますが、同じくらいの年頃の男子でユイリィという我々のもう一人の従兄弟も居ます」
「ユイリィ?」
「近いうちにきっと会えますよ。殿下はもうすぐ50歳(*注)になりますから、御影披露の儀でシーフォン全員に紹介されるでしょう。その時に他の子供たちとも会えます」
「君は他の者達とも会っているのか?」
「はい、我々は殿下とは立場が違いますので、誰とでも会うことは自由です。城下町に下りて町のアルピン達に会ったこともあります」
 タンレンはフェイワンの知らない色々な事を教えてくれた。それは教育係が教えてくれる色々な知識とはまた違っていた。
「御影披露の儀は……どんな感じなのだろう?」
「さあ……でも殿下が次期王位継承者として、我々シーフォン達の前で紹介される為だけの儀式だと聞きましたから……そんなに大変なことも無いと思います。皆に会うのは怖いですか?」
「怖い?」
 聞かれてフェイワンはしばらく考えた。これまでのフェイワンの世界は、とても狭いものだった。その生活の全ては、王宮の奥、国王が住居としている階層の中だけだった。家族は父である国王ただ1人。身の回りにいるのは、幼き時に世話をしてくれていた乳母(アルピン)と、現在の教育係であるルリシュ(シーフォン)、様々な学問を教えてくれる学士のジンシュイ(シーフォン)、神殿長のバイハン、そして侍女や警護の兵士達だ。
 竜王の世継ぎは、大切に大切に育てられる。50歳(*注)を迎えるまで、出来る限り外部の者達との接触を避け、純粋培養されるように育てられる。それは他のシーフォンの子供に比べて、幼少時は体が弱く育ちにくいという所為もあった。
 50歳(*注)まで育てば安泰だと言われ、その年に初めて人々の前に姿を見せる。そして100歳(*注)を迎えた時に、現王が没する時まで眠りにつく。それは冬眠のようなもので、身体機能を最低限に抑え、竜王の命の素である『魂精』を摂取せずに『その時』が来るまで眠り続けるのだ。その眠りの間歳は取るが老化は遅く、その時の流れはとても緩やかで、例え100年眠ったとしても世継ぎにとっては10年の年月しか経っていないようなものとなる。
 目覚める『その時』とは竜王交代の時で、竜王の死期が近づくと、次期竜王となる世継ぎが目覚め、王位交代の儀式を行う。竜王死去と共にその竜王の龍聖も没し、新しき竜王が大和の国より新しき龍聖を娶る。
「皆は、ボク達とさして変わらぬのだろう? 大人のシーフォンは、ルリシュやジンシュイなどのようなものだろう?」
「はい、我々は見かけだけは殿下とさして変わりません。ただたくさんの人々に会われるのは初めてのことで、怖いと思われたりしないだろうか? とボクが勝手に思っただけです。失礼致しました」
 タンレンはハキハキとした口調で言ってペコリと頭を下げた。彼はとても頭が良い。そして誠実だ。ルリシュが「とても利発なお子様です」と褒めていた。彼ならフェイワンの相手になると選ばれてきたらしい。
 父王も「タンレンはとても良い子だ。将来はきっと立派な青年になり、お前の片腕となるだろう。友と呼べる家臣を持つことは、とてもすばらしい事だ」と言っていた。
 フェイワンも彼には好意を持っている。とても親しみやすい。彼にはなんでも話せる気がしていた。
「タンレン……ひとつ聞いてもいいか?」
「はい、なんでもお尋ねになってください」
「母親というのは……どのようなものなのだ?」
 フェイワンの言葉に、タンレンは驚いたように目を大きく見開いてから、絶句してしまっていた。少し顔を曇らせて、困ったように視線を宙に漂わせる。
「気を使うな。構わぬから言ってくれ。オレは母親というのがどういうものか知りたいのだ。お前の母はどんな人だ?」
「ボクの母は……」
 タンレンは言いかけて、やはり迷っているように言いよどんだ。もちろんフェイワンの母親であるリューセーがすでに亡くなっている事を知っていた。なぜ亡くなってしまったのかは、子供なので知らないのだが、それは国にとっても一大事な事で、その話題に触れることは禁忌のようにさえも思われていた。
 母親の居ないフェイワンに、母親の事を思わせるような話は禁句だと、両親からも教育係のルリシュからも、強く言われていた。
 タンレンは困った顔で、フェイワンを見た。フェイワンはとても真っ直ぐな目をしていて、その表情には不安や悲しみは見受けられなかった。母への思慕から、そのような質問をしているようには感じなかった。言ってしまってもいいだろうか……
「ボクの母は……とても優しい人です。怒ったりしたことは一度もありません。花が好きで、よく部屋中に花を飾っています。自分でも育てたりしています」
「抱きしめたりしてくれるのか? お父様のように」
「はい、抱きしめてくれます……ボクはもうそういうのは恥ずかしいので、あまり……抱きしめられたくないのですが……」
「なぜ恥ずかしいのだ?」
「それはいつまでも子供みたいだからです。ボクには弟と妹が居ますから、二人の前では、もっと大人でいなくてはなりません。母に抱かれる役目は、弟達に譲ります」
「母というのは、みんな優しいのか?」
「はい……多分、みんな優しいと思います。ユイリィの母親のミンファ様は、ボクはちょっとニガテですが……」
「ミンファ様?」
「陛下の妹です。ボクの母の姉になります。ミンファ様も優しいのですが……口うるさい所があって……よく怒ったりするから僕はニガテなんです」
 タンレンはそう言って、ハハハと笑った。フェイワンはぼんやりと話を聞いていた。いくら聞いても少しもピンと来なかった。母親というのは女性で、乳母や侍女達と同じ女性で、そしてタンレンの話によると、とても優しくて抱きしめてくれたりするらしい。
 フェイワンの父親であるラウワン王もとても優しい。毎日フェイワンの事を抱きしめてくれる。夜は一緒に寝てくれて、毎夜寝物語を聞かせてくれる。それとどう違うのだろうか?
「父親はどうだ? お前の父親も優しいか?」
「はあ……父ですか? 父も優しいですが……ボクは長男なので、とても厳しくされます。よく叱られたりします」
「叱るのか? お前を? なぜ叱るのだ?」
 フェイワンは驚いて少し大きな声を上げてしまった。それを見て、タンレンはクスクスと笑った。
「ボクが立派な大人になるために叱るのです。間違った事をすれば叱られますし、弟達と遊んでばかりいて、勉強をおろそかにしてしまうと叱られます。ボクはあまり勉強が好きではないんです」
 タンレンはテレ臭そうに笑って言ったのだが、フェイワンはまだ驚いたような顔をしている。
「叱るというのは……大きな声を上げたりするのか?」
「そうですね。でも怒鳴ったりするのは、よほどのことでない限りしません。小言がうるさいだけです。でも剣を習ったばかりの頃は、よく怒鳴られたり叩かれたりしました」
「叩く!?」
 これには更に驚いた。フェイワンは生まれてこの方叩かれたことなど無い。もちろん王子なのだから、彼を叩けるとしたら親である国王ぐらいしかありえないのだが、その父親でさえ、手を上げるなんて想像できなかった。
 あまりにもフェイワンが目を丸くして驚いているので、タンレンは笑いながら手を振った。
「殿下、大丈夫です。こう……パチッと頭を叩かれるくらいで、別にひどく痛い思いをしたわけではありません。それに叩かれたのには訳があります。剣を使うには、それなりの覚悟をもって真面目にやらなければ、遊びでやっては怪我をしてしまうから、厳しくされただけです……今はもう叩かれることはありません」
 タンレンが宥めるように説明をするのだが、それでもフェイワンには驚きでしかなかった。


「タンレンとは仲良くやっているか?」
 1人掛けの大きなソファに座る王の膝の上にちょこんと座るフェイワンを、王は優しく抱きしめながら尋ねた。フェイワンは顔を上げて父の顔をみつめた。自分と同じ金色の瞳と赤い髪。フェイワンの憧れの人だ。
「はい、タンレンは色々とおもしろい話をたくさんしてくれます」
「そうか、それはよかった。タンレンならば、お前と仲良くできると思っていた」
 王はクスクスと穏やかに笑って、見上げるフェイワンの額にチュッとキスをした。フェイワンはくすぐったいというように目を細めた。
「驚く話もたくさん聞きました」
「ほう……どんな話だ?」
「タンレンのお父様は、タンレンを叱ったり叩いたりするそうです。タンレンは怖くは無いといっていましたが、僕には信じられなくて驚きました」
 フェイワンの話に、王は楽しそうにクスクスと笑う。そしてまた額に口付けた。
「それは叱るといっても、教育をしているからだろう。タンレンの父親のダーハイは、とても真面目で実直な男だ。ちょっと硬くて融通の利かぬ所はあるが、誠実で信頼のおける人物だ。彼がいるからこそ国内の治安は任せていられる……彼もゆくゆくはタンレンに、跡を継がせたいと思っているようだし……だから今のうちから厳しく躾けをしているのだろう。タンレンが怖くないと言ったのなら、それは頼もしい話だ」
「でも叩くなんて……僕には分かりません。お父様は僕を叩いたりしないでしょう?」
「ああ、叩かないよ。お前はとてもいい子だから、別に叩こうという気にもならない。だからと言ってタンレンが悪いから叩かれているというわけでもない……フェイワン、よく聞きなさい。お前とタンレンでは立場が違うのだ。王に尽くし、国に尽くす良い家臣になろうとするのならば、間違いを正す為に、子供の頃から厳しく教育されるのは仕方が無いことだ。叩かれたりすることも大事な事だ。誰でも楽なことが大好きだし、少し気を抜けば甘えようとしてしまうのは仕方の無いことだ。特に子供ならば……叩いたり怒鳴ったりすることで、「怖い」という事を知り思い、上下の力関係を覚えることも大事な事だ。だがお前の場合は、次期国王となる身……お前が誰かを恐れたりする必要は無いから、私はお前を叩いたりしない……だが……」
「だが?」
「だがお前には、人の痛みが分かる王になって欲しい。支配をするには、力は必要だし、時には相手を痛めつけたり攻撃したりしなければならない事があるだろう。だが人は叩かれれば痛い。傷つけられれば痛い。その事をちゃんとお前が忘れなければ、きっと暴君にはならないだろう……お前がもしもそれを分からないようならば、きっと私がお前を叩くだろう」
 フェイワンは、父の優しい眼差しを真っ直ぐに受け止めて、ジッと聞いていた。ずっと見上げていると、少し首が痛くなってしまったが、それでも構わなくてずっとみつめていた。
「分かりました」
 フェイワンが頷くと、王は嬉しそうに微笑んで強くフェイワンの体を抱きしめた。フェイワンはようやく顔を下げると、その抱きしめられる温もりに、身をゆだねる様にして目を閉じた。
 なんだかやはり、『母親の話』を聞いたことだけは言い出せなかった。
「フェイワン、愛しているよ」
「僕もお父様の事大好きです」
 フェイワンは王の逞しい腕に、スリスリと頬擦りをして幸せそうに呟いた。
 その幸せは、ずっとずっと続くものだと信じて……。


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