ビジネスマン的恋愛事情 〜恋愛指南編〜

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「これで良かったのよね」
食後のコーヒーを飲みながら、遼子がキッパリとした口調で言った。
「え?」
それまで、ずっと二人で沈黙していたのだが、柴田はその間ずっと遼子に対する懺悔の思いでどう償うべきかとばかり考えていたのだ。
柴田がきょとんとなって、遼子を見た。
遼子は、微笑を浮かべている。
「お互いに、ずいぶん遠回りをしたけど……結果としては、これで良かったのよね、私は貴方と結婚出来て幸せだったし、貴方も幸せだったと言ってくれた……お互いに限界までがんばったんだから、別れてしまっても……もう十分よね。
9年間は、決して無駄ではなかったと思うの……貴方にとって、9年間は後悔するものだった?」
「いや……君と結婚して良かったと思っている」
「そう、よかった」
笑った遼子の顔を見て、柴田は綺麗だと思った。
遼子は、贔屓目でなくても、美人だった。
ストレートのロングヘアに、スレンダーな肢体で、ビジネススーツの似合う、美女だった。
二人を知る者は、美男美女のカップルで、誰もが羨んだものだった。
「これから、私も再婚するかどうかは解らないけど……もしも相手をみつける時は、自分の分相応な相手にするわ……」
遼子がそう言って笑ったので、柴田には一緒に笑うしかなかった。
今の彼には、それを肯定する事も否定する事もできなかったからだ。
「……ごめんね……一方的に話をして……」
「いや……オレは、君に謝る事ばかり考えていたから……」
「謝らないで……お互いに納得の上での離婚でしょ?」
「…………そうだね」
柴田はうなずいて、コーヒーを飲んだ。
本当に、遼子がそれでいいのなら……柴田は思った。
「そうだわ……弁護士さんから色々と聞いたのだけど……私からの条件はひとつだけなの……聞いてくれる?」
「それは、なんだって……オレにできる事なら……昨日、実はオレの住む所を色々探して見たりしたんだ」
「その事なんだけど……あのマンションは貴方にあげるわ」
「え?」
「だって……元々あのマンションは貴方がとても気に入って買ったんじゃない……内装だって家具だって、みんな貴方がこだわったでしょ?そりゃ……私も好きだったけど……でもね、あのマンションには私は住めないわ……色々な所に貴方のこだわりがあるから、貴方を思い出してしまうもの……そのかわり、女一人で住むのに十分なくらいのマンションを買ってほしいの……それを慰謝料代わりで……どう?本当はそれも貰い過ぎだと思うけど、貴方の性格を考えると、それくらい言わないと納得しないでしょ?私があのマンションを買うのに支払った金額が多分2千万くらいだと思うからそれくらいのマンションを買って貰うって事でどうかしら?」
「いや……君の望みはどんな事でも叶えるつもりだけど……それでいいのか?」
遼子はコクリとうなずいた。
「あんまり無茶しないでね、1LDKくらいで十分なんだから……我侭を言わせてもらうと、新築がいいの……物件は私の好きなところを選んでもいいかしら?」
「ああ……それはもちろん」
「ありがとう……もうそれで十分……だって、同意の離婚なのに、慰謝料を貰える方が、なんだかおかしいもの……第一、貴方には何も落ち度が無くて、私が勝手に家出をしたのだから……私は仕事があるから、生活には困らないし、家さえ貰えるならね」
「……すまない……なんか……オレって本当にダメだな……」
「どうして?何も謝る事なんて……女はね、切り替えが早いんだから……新しい住まいで、新しく人生をスタートさせるの……私も新しい恋をみつけようかしら」
遼子はそう言って、意味深に微笑んだ。
柴田は、「え?」という顔をした。
「彰……今、恋しているでしょ?」
その言葉に、ギクリとなった。
つくづく女というのは、感が鋭いと思う。
「全然顔が違うもの……今度こそは……本物ね……本当に愛せる人に出会えたんだ……それが私でないのが残念だけど……もういいの、大丈夫……」
遼子は少し寂しそうな顔で微笑んだ。
柴田は、ごくりとつばを飲み込んだ。
彼女に本当の事を話すべきだろうか……迷いがあった。
「どうしたの?」
「遼子……違うんだ……その……君の事は愛していたよ……今も好きだ……オレが一生で唯一愛した女性に、君はなると思うよ」
「え?」
「………………驚かないで聞いて欲しい……君には、本当の事を知る権利があると思うし、本当のオレを知って欲しいから……オレ自身、自分の本心に気づいたのはつい最近なんだ……確かに、君の言うとおり、オレは今恋をしている……本当に、自分でも信じられないほど、情熱的に愛しているんだ……その相手を……オレの今の恋人は…………」
そこまで言って、柴田は言葉をつまらせた。
さすがにそれを口に出すのは、とても勇気がいった。
もしかしたら、遼子との関係もこれでもう二度と会えない悲惨な結果になるかもしれないと思ったからだ。
軽蔑されるだろうと思った。
「オレの今の恋人は……まだ日は浅いんだけど……というか……お互いに告白したのは、離婚届を出した後なんだ……その……男性……なんだよ」
「え?」
遼子は、よく解らないという顔で、聞き返した。
「……オレの恋人は、男性なんだ……オレ……ゲイなんだよ」
「彰……」
さすがに遼子は、驚いた様子で、目を見開いて柴田をみつめた。
「それ……本当なの……?」
遼子の問いかけに、柴田はコクリとうなずいた。
「……いつから……なの?」
「……本当に……最近なんだ……自分が、その男性に……その……好意を持っている事に気づいたのは……ほんの2ヶ月前なんだ……本当なんだ……」
柴田は、苦しそうに言葉を選びながら話した。
その後、二人の間に沈黙が流れた。
もう終わりだ……柴田は思った。
彼女とは、離婚した関係だ。本来ならばもうこれっきりになってしまって当然で、今更彼女にどう思われようと構わないはずなのだが、さっきまで上手く話合いが出来て、お互い納得づくで別れられそうだったのに、何も自ら墓穴を掘ることはなかったのかもしれなかった。
カミングアウトするというのは、なんと勇気がいる事なのだろう。
あの真っ直ぐで、誠実な西崎でさえ、今まで世間体を気にして悩んでいたと言ったくらいだ。
自分よりもずっと正直者の彼の事だ。
自分の性癖に気づきながら、周囲に偽装して生きるのが、どんなに辛かっただろう。
こんな状況になってまで、柴田はそんな風に西崎の事を考えていた。
二人の間の重い沈黙した空気が、とても長い時間続いているように思えた。
柴田は、コーヒーの水面をずっとみつめていた。
遼子は、考え込んでいるような表情で、窓の外をみつめている。
「りょ……」
居たたまれなくなった柴田が、声をかけようとした瞬間、遼子が大きな溜息をついた。
柴田はビクリとなって、言葉を飲み込んだ。
「仕方ないわね」
「え?」
柴田は、驚いて顔を上げると、遼子の顔を見た。
遼子は、呆れたような顔をして、その後ニッコリと笑った。
「彰がゲイなら仕方ないわよね……相手が男性じゃ、張り合う事もできないもの……とりあえず、彰が愛した唯一の女性の座は、私が貰えるって事でいいのかしら?」
その言葉に、柴田は少しの間驚いて呆けていたが、我に返って慌ててうなずいた。
「も……もちろんだよ」
「じゃあ……いいわ……告白してくれたのだし……それは許すわ……」
「本当に?……気持ち悪いとは思わないのか?」
遼子はニッコリと笑った。
「そうね……正直……とても驚いたわ、それにゲイに対して偏見が無いとも言えないわ……でも、貴方の事は、誰よりも解っているつもりだし、今まで私を騙していたとも思えないし……私を愛していたという言葉は信じる。それにね、複雑なのよ……最初、貴方に新しい恋人が出来たと知って……私はどんな女性に負けたんだろうって思った……女として、どこが劣っていたんだろうって……だからね、あなたがゲイだって聞いて、ちょっとホッとしたのも本当なの。男相手なら勝負にならないじゃない?……そう思ったら、ふっきれたわ……貴方は貴方だもの、気持ち悪いなんて思わないわ」
柴田は、遼子のこんな所が好きで、結婚しようと思った事を思い出した。
常に何事にもポジティブで、一緒に居て気持ちの良い女性だと思ったから、他の女性でも思わなかった結婚を決意できたのだ。
「ありがとう」
柴田はそう言って頭を下げた。
遼子は、首を振った。
「いつかその人を紹介してね」
「ああ……いつか……」


柴田は、遼子と別れて、真っ直ぐ家へと帰った。
部屋に戻ると、大きく溜息をついて、ドサッとソファに倒れ込んだ。
「疲れた……」
小さくつぶやいた。
本当に疲れた。
気疲れと言うか何と言うか……やはりあのカミングアウトが一番精神的にダメージがあった。
ふと携帯電話を手にとり、アドレス帳を動かした。
「西崎聡史」の名前が表示される。
しばらくそれをみつめていたが、かけるのを辞めた。
電話をテーブルの上に置き、溜息をつきながら首を振った。
今、彼に電話をしてどうするつもりなのか……ただ声が聞きたい……それだけ?
会いたい……本当は今すぐにでも会いたかった。
会って力強く抱きしめて欲しかった。
西崎に癒されたかった。
そんな事を考えている自分を、自嘲気味に笑ってみた。
いつから自分は、そんなに女々しくなってしまっていたのだろう。
人を愛するという事は、こんなにも人を弱くし、こんなにも相手に依存してしまう事なのだろうか?
いや……それはきっと一般論では決してなく、自分が恋愛によってこんなに変わる人間だったのだというだけなのだろう。
他の人は、きっとそれを10代の頃に知り、その弱さも強さも、きっと「若さ」で乗り越えていくのだろう。
そうやって色々な経験をして大人になるのだろう。
しかしオレは?40歳になった今頃になって、突然本当の恋を知ったのだからきっととまどっているだけなのだろう。
今まで築いてきた「自分自身」を崩されてしまうような物だから……。
ふと時計に目をやった。
4時少し前を指していた。
酒を飲むには少し早い時間かな?と、ちょっと考えた。
なんだかちょっとマイナス思考だろうか?ちょっと精神的に疲れて、その癒しを西崎に求め様として、それを思いとどまり、代わりに酒を飲んで紛らわそう何て……。
そんな事をぐるぐる考えたが、再び携帯電話を手に取った。
声を聞くだけなら……そんな事をちょっと思って見た。
西崎の番号を呼び出して、少し躊躇した後、思いきってかけてみた。
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