ビジネスマン的恋愛事情 〜恋愛指南編〜

ススム | モクジ

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柴田は、パソコンのモニターをジッとみつめていた。
新事業の企画推進案の計画書が映し出された画面を、先程からずっとみつめたままだった。
しかしその瞳は、ぼんやりとしていて、心ここに在らずという所在だった。柴田は、出勤してからずっと考え事をしていた。
昨夜から今朝までの出来事を、何度も反復して考えていたのだ。
昨夜、自宅に帰ると、郵便受けに1通の封書が届いていた。送り主は「柴田遼子」、柴田の別居中の妻からだった。中身は開けずとも解っていた。
「とうとう来たか……」そう思った。
7月初めに妻が家を出てから4ヶ月。季節は夏から秋へと移り、もうすぐ冬が来るところだった。
柴田は、何度か夫婦関係の修復を試みたが、それが無理だと実感して、そしてそのすべての原因が、自分自身の変化によるものだと自覚してから、遅かれ早かれこうなる事は解っていたのだ。封を開けると、中から1枚の書類が出てきた。
「離婚届」。妻の記入覧には、すでに記入が済まされ判がついてあった。他には手紙ひとつ封入されていなかった。しばらくそれをみつめた後、黙って空欄を埋めた。
そのまま、また送り返すべきかとも思ったが、それはあまりにも卑怯に思い、自分でけじめをつける事にした。
かわりに、一筆手紙をしたためた。
それは全面的に、自分が悪かったと認めた謝罪の言葉と、柴田の知合いの弁護士に、今後の事はすべて相談して、彼女の納得の行くようにしてほしいという旨を書いた。
朝から半休の連絡を会社にして、区役所へと向った。離婚の手続きは、案外あっけなく済み、気が抜けてしまった。そのまま昨夜書いた手紙をポストへ投函して、知合いの弁護士事務所を訪れた。
弁護士には、彼女の望むままに慰謝料も払う旨などを伝え、すべてを任せることにした。事務所を出ると、すべてが終わったと思った。
秋晴れの空を眺めながら、あのマンションは手放すことになるだろうと考えて、新居を探さないといけないなと思った。
午後から出勤したものの、なんだか気が抜けてしまって、仕事どころではなかった。
今まで、仕事も私生活も、すべて順風満帆で、誰もが羨むようなソツの無い日々を突っ走ってきた気がして、こんな風に、ポッカリと穴が空いたような空虚感というのを味わうのは初めてだった。
後悔はなかった。虚しさもなかった。悲しみも無かった。ただ、本当にポッカリと穴が空いたような虚脱感があった。
「部長……柴田部長?」
ふいに呼ばれて、ハッと我に返った。
「え?」
声のする方を見ると、部内の女子社員がふたり立っていた。
「午前中お休みでしたけど、どこか具合が悪いんですか?」
「え……あ……いや、大丈夫だよ、すまない……で、何か?」
柴田は、慌てていつもの穏やかな笑みを浮かべて見せた。
女子社員は、少し色めき立ちながら、顔を見合わせてうなずいた。
「あの……今年の部内の慰安旅行ですけど、結局皆さん日程が揃わないみたいなんです」
「あ……ああ、そういえば、いくつか大きな企画が入って、みんなバタバタしてしまっていたな……忘れていたよ、すまなかったね」
「あ、いえいえ、あの……それで、勝手に決めてしまって、申し訳ないんですけど……年明けに、新年会も兼ねて温泉旅行をするのはどうかと……」
そう言って、「回覧」と書かれた紙を差し出された。
それには、1月前半の日程で、1泊2日の箱根旅行の案が書かれてあった。
年始明けすぐの土日と、次の週の土日と、都合の良い方に参加のサインをする様に欄が作られてあった。
「ああ……解った……後で書いて返すよ……じゃあ幹事は、岡本さんと青木さんなのかい?」
「はい……それじゃよろしくお願いします」
彼女達が席に戻るのを見送っていると、ふと、西崎と目が合った。しばらくみつめあった後、柴田の方が先に目をそらした。ふう、と息をつく。
あの夜以来、特に何の進展も無いし、西崎からも柴田からも、特にモーションをかける事はなかった。
ただ、柴田は、あれで自分の気持ちをハッキリと自覚してしまったし、西崎にもそれがバレたのではないかと思っている。
西崎の自分を見る熱い眼差しは変わらないが、自分もきっと似たような眼差しを送っているのではないかと思う。
そして西崎を好きだと言う気持ちは、日に日に強くなっていた。西崎を見ると胸の奥が痛んだ。熱く焼けるような痛みだ。夢に見ることもあった。
特にこれといって、色気も何も無い夢だが、夢の中の彼は、いつも柴田の側で爽やかに笑い、2人の間には穏やかな時が流れる幸福な気持ちになる夢だった。
そんな夢を見るときは、いつも穏やかな気持ちで目覚め、広い家の中での一人きりの現実を思うと、とてもせつなくなった。
今ここに西崎がいてくれればいいのに、とさえ考えてしまい、別居中の妻の事を忘れている自分にも改めて気づかされた。
西崎が好きだ。
彼をもっと知りたいとも思った。
あの夜、初めてプライベートでゆっくり話をしたのだが、歳の差や仕事の上下関係を忘れてしまえるほど、とても楽しい時間を過ごしたと思う。
素の彼は、とても魅力的だった。
話もとても合うと思う。
彼が自分の事をどう思ったかは解らないが……
回覧の紙に目を落とした。
「西崎」の名前を、無意識に探す。
一番人気のある第2週の土日に、印がついてあった。
柴田は、手帳を出すと、スケジュールを確認した。今の所、特に予定は無い。前日の夜に、得意先との接待があるが、早々に切り上げれば、特に翌日にはひびかないと思う。
面倒な相手ではないし、まさか「朝まで付き合え」という事にはならないだろう。まあ万が一そうなったとしても、慰安旅行だ。行きのバスの中で、ゆっくり出来れば疲れも取れるだろう。そんな事を考えて、その日程に印をついた。
「岡本さん、悪いけどこれ」
「はい」
先程回覧を持ってきた女子社員の一人・岡本を呼んで、回覧を手渡した。
「わあ……部長がこの日なら、もう決定ですね」
「いや……まあ出来れば、全員で行きたいから、他の人たちともよく相談してください」
という柴田の言葉を聞いているのかどうか、彼女は他の女子社員達ときゃっきゃとはしゃいでいた。もうその日何を着ていくか等と、相談を始めている。
柴田は、苦笑してその様子を見守っていた。
再び西崎と目が合う。
今度は、西崎がニッコリと笑ったので、柴田もつられて笑ってしまった。
こんな事でときめくなんて、本当に中学生の恋愛だな、と自嘲してみた。
後で、総務に行って、同居家族から妻の名前をはずす手続きをしに行かなければならないなと、事務的に考えた。多分明日中には、社内に離婚の話が流れるだろう。その時、西崎はどう思うだろうか……。


それから2日後の木曜の夜。妻の遼子から電話がきた。
「手紙、読んだわ」
彼女の声はとても落ち着いていた。
「ああ……弁護士の桐原さんとは話したのかい?」
「ええ……少しね。離婚届、もう出したのね」
「ああ……」
しばらく沈黙が続いた。
「一度、会わない?」
ふいに彼女がそう切り出した。
柴田は思いがけず、一瞬言葉をつまらせた。
「……そうだね……君さえよければ」
「じゃあ……今週末は?急で忙しいかしら?」
「いや……日曜なら大丈夫だよ」
柴田は、4ヶ月ぶりに妻と(この場合『元』になるが)会う約束をした。
『3日後か……』
カレンダーを見て、改めて思った。
会うと言っても、今更どんな顔をして会えば良いのか解らない。
しかしこのまま会わない訳にもいかない。
あまり先延ばしにすると、気持ちが迷いそうなので、こうやって彼女から急な日程でも言ってくれた方が、正直助かった気がした。
土曜日に、不動産屋を回るつもりでいたので、偶然とは言え、その時に引越し先が決まっていれば、彼女にもこの家を譲る話を気持ち良く出来そうだ。
翌日、柴田は午後から打合せの為外出しようと部署を出て、エレベーターホールの前まで来た所で、バッタリと西崎に会った。
「あ……お出かけですか?」
西崎が声をかけてきた。
「ああ、ちょっとメディアブレインまで、打合せにな」
「たしか……半蔵門でしたね……いってらっしゃい」
「ああ……行ってくるよ」
そう言って別れて、柴田が降下のボタンを押そうとした手を止めた。
「西崎君」
柴田は、立ち去ろうとしている西崎の背中に、思いきって声をかけた。
「はい?」
西崎は、すかさず振りかえるとニッコリと笑った。
「何か?」
「あ……」
柴田は一瞬躊躇して、辺りを見まわした。
特に人影はなかったし、上司と部下の関係である。社内で声をかけたからと言って、別に人の目を気にする事は何一つないはずなのだが、ついつい後ろめたい気持ちがあるせいか、周囲を気にしたりするのだった。
「今日も残業……遅くなりそうかい?」
「え?」
「一緒に……食事でもどうかと思ったんだが……」
柴田はそう言って、少し気恥ずかしそうな顔をした。
本人に自覚は無いが、この表情が堪らなく色っぽくって、西崎の心臓が跳ね上がった。
「ダメかな?」
「も……もちろん!! 喜んで!!! ダメな訳ないでしょう!!」
少し離れた部署内まで聞こえたのではないか?というくらいに威勢の良い声で、西崎が嬉しそうに答えた。
「この前の店でいいかな?」
「もうどこでも!!」
柴田は、思わず微笑んだ。
「じゃあ……あとで」
柴田はそう言って、エレベーターの降下のボタンを押した。
「はい!」
西崎は、元気に返事をすると、ペコリと頭を下げて、スキップでもしそうな足取りで、オフィスに戻っていった。
その後姿を、柴田は微笑みながら見送った。
妻と会う前に、この落ち込み気味な気持ちをスッキリとさせたかった。
そして西崎とまた2人きりの時間を過ごしたいと思ったのだ。
きっと彼は、自分の気持ちに気づいている。
そして柴田自身も……だから、前回の食事とは、また何かが変わる気がした。
今、とても心地良い胸の高鳴りを、しみじみと味わっていた。
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