ビジネスマン的恋愛事情 〜柴田彰の場合〜

モクジ
 男は疲れた様子で、家路についていた。
 駅に降り立つと、もう深夜近いというのに、ムッとした熱気が肌にまとわりついて、不快感を覚えた。7月中旬とはいえ、もうすでに熱帯夜だ。彼のマンションは、駅から歩いて5分と近い場所にある。早くシャワーを浴びて、汗を流してさっぱりとしたかった。足早に改札を抜けて、家路を急いだ。


「ただいま」
 真っ暗な室内は、シンと静まり返っていた。いつもと少し様子が違う気がして、真っ直ぐリビングに向うと明かりをつけた。 綺麗に掃除されたリビングは、特にいつもと変わらない。ソファにカバン下ろし、ネクタイを緩めながら辺りを見まわした。何か、やはり違う気がして、少し不安がよぎり寝室へと向った。静かにドアを開けて、そこにいるはずの名を呼んだ。
「遼子?」
 気配が感じられないので、明かりを点けると、やはりベッドは綺麗にメイクされたままで、誰の姿も無い。彼は慌ててすべての部屋を探したが、妻の姿はなかった。ただ外出しているのでも、彼女の仕事が遅くなっているのでも無い、彼女はいなくなったのだ。気配が無い事に気づいた時から、そんな予感はしていた。
 彼は呆然となりながら、カバンを持って自分の書斎へと行くと、机の上にカバンを置きながら、ふと白い封筒が置いてあるのに気がついた。封筒から手紙を取り出して開いて見る。

『彰へ 貴方と一緒にいるのが辛いので実家へ帰ります。私達はしばらく距離を置いてみた方がいいと思います。 遼子』

 彼は、手紙を握り締めて大きく溜息をついた。
 結婚して9年、今更もうラブラブという間柄ではなかったが、仲が悪いと言う訳でもなかった。むしろ今までさして大きな喧嘩をした事が無かったので、一般論から言えば仲が良い方だったと思う。
 ふたりの間には子供が無い。特に不妊の検査はした事は無かったので、原因は解らないが、妻の遼子も仕事を持っているので、今までお互いに特に意識して、子作りに励もうとしたこともなく、望まないから出来なかった。ただそれだけだと思う。
 彼、柴田彰は今年40歳。大手エレクトロニクス企業のエリートサラリーマンだ。3年前若干37歳にして、企画開発部の部長に最年少で就任したヤリ手のビジネスマン。彼が部長になってから、新しい事業展開の方針を提案したり、新規の顧客を増やしたりと、その手腕を発揮したおかげで、出張や残業も多くなり、夫婦の時間が少なくなっていたことは否めなかった。
 しかし彼女もバリバリのキャリア・ウーマンだ。知り合ったきっかけも、取引先の企業で、マーケティング・コンサルタントの仕事を彼女がしていたからだ。お互いに、仕事に対する意識や価値観を理解し合えたので結婚した。彼女は結婚をしても仕事を続けたがっていたし、彼もそれを当然と思い、1度も反対した事はなかった。仕事柄、男女の差別がないので、当然残業や出張もあり、主婦らしい事は何一つ出来ていなかったが、彼はそれを1度も不満に思った事はなかった。
 彼女の方も、「キレ者」で通る彼の仕事振りに惚れたと言っても過言ではなかったので、バリバリと仕事をこなし、どんどん出世をする夫を誇りに思っているようだった。自分に理解を示してくれる上に、家事の分担もしてくれて、妻の休みに合わせて年に何度か休みを取って、一緒に過ごしてくれる優しさに、夫としての不満も何もないと言っていたはずだ。
 そんな二人のはずだったのに、何が悪かったというのだろうか? 彼はどう考えても、彼女の行動がわからなかった。

 夫婦の間がおかしくなり始めたのは、2年前からだ。妻の様子が少しおかしいとは、薄々思っていたが、仕事の悩みでもあるのかと思っていた。それがある日唐突に、彼女の口から出た言葉に、とても驚かされることになった。
「彰……あなた、付き合っている女の人がいるのね?」
 彼女は、深刻な顔で、真剣に聞いてきたのだ。残業続きで、久しぶりにふたりで食べる夕食の後だった。
「何を言っているんだ?」
 彼は本当に、その言葉の通り、彼女が何を言い出したのか訳が解らずにそう聞き返した。
「隠さなくてもいいのよ。貴方はモテるのだから、今まで噂のひとつもたたなかったのが不思議なくらいだと思うし、私は最初から覚悟していたから……ただ隠し事は嫌なの、あなたが正直に言ってくれれば許すわ……もっとも、その人の方を私よりも愛しているというのなら、話はまた別だけど」
「遼子。ちょ、ちょっと待ってくれ、一体何を言い出すんだい? オレは浮気なんかしてないし、それ以前に他に好きな女性なんていないよ」
 彼は本当に困惑していた。正真正銘浮気なんてまったくもってしていないからだ。
「本当に?」
「ああ、本当だとも! そりゃあ、部長になってから忙しくなって、残業とか出張が多くなって、君にはすまないとおもっているが…むしろ忙し過ぎてそんな暇なんて無いよ」
「ごめんなさい、解ったわ……貴方を信じるわ。でもなぜかしら、最近の貴方は……ちょっと変わった気がするの。仕事とかそういうせいだけではなくて……それが女の感っていうのか、他に好きな人がいると思えてしまったのよ」
 遼子には、彼が嘘をついていない事は解っていた。こうして話して、それはハッキリと解った。長い付き合いなのだから、それは解る。それなのに、未だにこんなに不安に思うのは何故なのか?
 一方、柴田は、本当に困惑していた。なぜ突然に彼女がそんな事を言い出したのか、自分の何が、彼女にそんな疑惑を抱かせてしまったのか? 本当に困惑していた。
 しかし、それが彼自身さえもこの時自覚の無かった気持ちを、後に明らかにするきっかけになろうとは、この時の二人には思いも寄らなかった。


 彼女が消えた夜、眠れぬ夜を彰は過ごした。リビングのソファに座り放心状態でいた。
 帰ってきた時に、リビングに入って何かが違うと思ったのは、TVの上に置いてあるはずのミニ・サボテンの鉢がなくなっていたからなのだという事に、やっと気がついたのは外が明るくなり始めた頃だった。あれは彼女が大事にしていた物だった。
 一晩中ずっとこれからどうしたものかと考えていた。あの彼女の一言から2年、自ら彼女に気を遣い、夫婦間の修復を試み様と努力をしたが、二人の仲は冷えて行く一方だった。
最初は彼女の疑惑が理解出来なかった。
 本音を言わせて貰えば、自分が結婚出来たのさえ不思議なほど、昔から恋愛には無関心な人間なのだ。だから「浮気」だなんて、濡れ衣も良い所なのだ。
 子供の頃から、たくさんの人に「ハンサムだ」「綺麗な顔だ」と言われ続けていたので、自分で言ってしまうと嫌味に聞こえるかもしれないが、ルックスが良い事は自覚している。
 貰ったラブレターやチョコの数も計り知れないし、告白された事もかなり多い。しかし、自分でも不思議なほどに、恋愛に関心がないのだ。決して女性が嫌いな訳ではない。それなりに「好みのタイプ」もいるし、今まで「良いな」と思う子も幾人もいた。
 だが、自ら恋をした事がなかった。欲情も覚えなかった。たぶんどこか心に欠陥があるのかもしれないとさえ思った。
 遼子と結婚したのは、親や周囲がいい加減うるさかったので、うんざりしていた時に、価値観の同じ女性に巡り合えたからだった。彼女とならきっと上手くやっていけると思ったし、一緒にいて楽しいと初めて思える女性だったから、人より情熱が薄いけど、それはきっと淡白なせいで、これが自分なりの「恋」なのだと思えた。だから結婚を決意したのだ。これまでの結婚生活は、それなりに充実したものだったと思っている。彼女もいつも「幸せだ」と言ってくれていたはずだった。
 それなのに、あれ以来、払拭されたと思っていた彼女の疑惑は、結局解消されていなかったのだ。彼女は一緒に居ても、笑う事が少なくなり、会話が減り、時には小さな事でいちいち口論してしまうようになってしまっていた。彼女はとても敏感になっていて、彰を見る目つきさえ変わっていった。そしてそんな自分にさえも、許せないと言う自虐の気持ちにもさえなまれていて、嫉妬と自責の両方の思いで、かなり疲れていた様だった。だからいつかはこんな日がくるのではないかと思っていたのだ。
 2年もの間、彼女にはかわいそうな事をしてしまったと思う。しかし彼にはどうする事もできなかったのだ。事実、浮気はしていないのだから……
 浮気はしていない……しかし、彼女が言った「女の勘」が何の事を指していたのか、「彰が変わった」というのが、どういう意味だったのか…実はここ数ヶ月の間で、「もしかしたら」と思えてしまう事があるのだ。


 3年前、彼の部署にニューフェイスが入ってきた。
 新人という訳ではなく、総務部にそれまで在籍していた入社5年目の社員が、人事異動で配属されてきたのだ。総務部と企画開発部では、階層が違うので、そう頻繁に行き来するわけでもなく、あまりその人物を知っている訳ではなかった。
 しかし、柴田は以前から、たくさんいる社員の中で、彼の存在は知っていたのだ。なぜなら、190cm近くはあろうとも思える長身と、ハンサムな顔立ちで、とても目立つ存在であり、女子社員の話の端々に、よく彼の名前が聞こえてきていたからだ。
 西崎聡史、自ら営業部・販促部もしくは企画開発部への異動を希望してきたらしい。丁度、企画開発部に、退職者があった為、異動が叶ったと言う訳である。本人が希望していただけあって、仕事に対する意欲はかなりのものだった。そのやる気と、がんばりが、柴田の目にもとても好感が持てた。
 斬新な新企画の提案書も、次々と提出してきていた。その活躍が認められ、配属して1年で主任に昇格したのである。期待のホープだ。
 西崎は、上司である柴田の事をかなり尊敬しているらしく、何かと仕事の相談をしてきたり、柴田の仕事の手伝いを率先して行ったりしていた。そんな彼のペースに巻き込まれて、柴田もいつしか彼の事を特別に贔屓しているつもりはないが、いつも彼を気にかけるようになっていた。
 部下の面倒見が良いと、もっぱら評判の柴田部長だが、20年近くの勤務の中で、こんなに特定の部下に目をかけた覚えはなかった。確かに、今までも有能な部下はたくさんいた。なのに、なぜか西崎ばかりを構ってしまうのだ。こんな事ははじめてだ。素直で、真面目で、仕事熱心で、大型犬の様に人懐っこくついてくるこの青年が、かわいく思えた。それは弟を思うような気持ちかもしれないと思っていた。西崎も、きっと自分を上司としてだけでなく、兄として慕ってくれているのだろう。そう思うと余計に好感を持てた。気がつくと、以前にも益して、仕事が楽しくなり、会社へ行くのが楽しくなっていた。時々残業で、遅くまで残る西崎を見ると、自分も一緒に残ってしまっていた。
 そしてある日、彰は西崎が自分を熱い眼差しでみつめている事に気がついてしまった。仕事中も、会議中も、何かをしていて、ふと誰かの視線を感じて振り向くと、いつもそこに、真っ直ぐな眼差しを向ける西崎の姿があった。
 目が合うと気まずそうに視線を逸らすが、その視線がとても熱く感じられて、「ただ見られている」だけではない、何か彼の特別の想いまで伝わってくるのだ。その事に気づいて、その「特別な想い」にさえも気づいても尚、まったく嫌な気持ちにならない自分自身にもとても驚いてしまっていた。むしろ嬉しいとさえ思ってしまっているのだ。
 相手は男性である。そういう性癖の人種に対して、特に差別する感情は無いし、恋愛は自由なのだと思っていたし、自分に関係の無い物とも思っていたから、特に嫌悪感を持った事はなかった。だが今は、自分がその対象となっているのだ。
 彼は、特に何のモーションもかけてこないが、きっと自分に対して、恋愛感情を持っているのだと思う。そう思われて、嬉しいと思っている自分がいる。年甲斐も無く、まるで中学生の恋愛の様に、心をトキメかせてしまったりしているのだ。自分のそんな気持ちを自覚したのは、ここ最近だった。
 今まで、男性に対してこんな想いを抱いた事はなかったし、自分がゲイだと思った事もなかった。いや、もしかしたらこんなに心トキメかせ、恋する気持ちに胸を焦がすなんて事は、生まれて初めてかもしれない。女性に対してさえ、こんな気持ちになった事はなかった。それは自分が、恋愛に対して淡白なだけなのだと、ずっと思っていたから、今初めて「恋」という気持ちが、どんな感情なのか理解できた気がしていた。そう思うと、恥ずかしいが、もしかしたらこれが「初恋」になってしまうのだろうか……。だからと言って、妻もいる身で、彼とどうなろうという気もないのだが。
 そんな自覚をした矢先に、妻が家出したのだ。2年前、彼女が口にした疑惑の言葉。「彰は変わった」「それが女の感っていうのか、他に好きな人がいると思えてしまったのよ」それがどういう意味だったのか、今ならハッキリと解ってしまった。そんな事をずっと一人になったリビングで、彼女の置手紙を見つめながら考えていた。
 自分でも、こんな自分の中に情熱があるとは思わなかったと思うほど、西崎に対する想いは止められなくなっていた。それをなんとか理性の壁で押し隠しているのだった。そんな気持ちを自覚したまま、家出した彼女を連れ戻せるはずがなかった。
 彼女に何と言えばいいのだろう……彼女もそんな彰の本心を察しているからこそ、家を出たのではないのか?
 しかしだからと言って、離婚すべきなのか? 離婚してどうする? 西崎にこの想いを打ち明けるのか? そしてそれからどうするというのか? 男同士で、公にはできない関係で、何の実りがある訳でもないのに、自分でもまだ自分の性癖を認める事も出来ず、いやそれよりも恋というのに不慣れで、自分の気持ちを持て余しているというのに……。


 そんなどうする事も出来ず、中途半端な状態のまま、妻の家出からだらだらと3ヶ月が過ぎてしまった。もちろんその間に、遼子に何度か電話をかけたが、「帰ってきて欲しい」という柴田の言葉も、空回りしてしまっていて、彼女の心には届かなかった。もちろん柴田にも迷いがあるのだから仕方が無いのだが……。
 一人暮しとなってしまったこの3ヶ月、もっと慌てなければいけないのに、どこか束縛から解放されたような気持ちもあり、不謹慎ながら更に西崎への想いを募らせていた。彼の熱い眼差しに、胸が締めつけられる。
 40のおじさんが、道化も良い所のような気にもなり、若くてはつらつとした西崎を思うと、もしかしたら独り善がりではないのか? との不安さえも過ぎる。
 今日も、彼が残業しているのを見掛けて、自らオフィスに残っていた。
「柴田さん、オレ、何か食い物を買いに行きますけど……どうなさいますか?」
 ふいの彼の言葉にドキッとして、顔をあげると、西崎は爽やかな笑顔をこちらに向けていた。顔が上気しそうになるのを一生懸命こらえた。
「食料、何か買ってきましょうか?」
 彼がもう一度ニッコリと笑って言った。彰は、冷静さを装いながら、前髪をかきあげた。
「そうだね……」
 柴田は以前から密かに実行したいと思っていた行動を取るのが、今が一番のチャンスだと思った。西崎を食事に誘い、二人きりの時間を過ごしたい。仕事がらみでなく、プライベートで彼と過ごして見たかったのだ。
 勇気を振り絞って、西崎を誘ってみよう。声がうわずったりしないように気をつけなければ……上手く言えるだろうか? 柴田は小さく深呼吸をして、顔をあげると穏やかに微笑んで西崎を見た。
「仕事……まだかかりそうかい?」
モクジ
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