ビジネスマン的恋愛事情 〜西崎聡史の場合〜

モクジ
「よ! お先!」
 ポンッと軽く肩を叩かれて、西崎はハッと我に返った。声の主を探すように、ゆっくりと辺りを見まわす。丁度ドアを開けて、外へ出ようとしていた同僚の浦田が、一度立ち止まって、バイバイと手をヒラヒラさせると、そのままドアの向こうに姿を消した。
 西崎は、ずっとパソコンのモニターと、にらめっこしていて、もうすっかり時間が経ってしまっていた事にも気がつかなかったのだ。我に返って辺りを見まわすと、広いオフィスはガランとしていて、人影はまったくなかった。
 ふう、と息をついて腕時計に目をやると9時を少し過ぎていた。どうりで腹が減っているはずだ。我に返った途端に、急激に空腹感を覚えて、胃がキリキリと痛みだす。
 ここ3日ほど、ずっと毎日こんな感じだ。この分だと、今日も帰宅するのは終電ギリギリだろう。とりあえず、近くのコンビニで何か買ってこようか、と思いながら、ふと視線を静かに動かした。
 今日も、その人は残っていた。西崎の直属の上司・柴田部長。
 静かにキーボードを叩いている。西崎の憧れの人だ。
 柴田彰、企画開発部部長、40歳、既婚者。仕事をバリバリとこなす、社内で一番のキレ者で、最年少の部長で、一番の出世頭だ。その上、部下の面倒見も良く、ルックスも良いとなると、社内の人気もナンバー1だ。憧れているのは、決して西崎だけではなかった。
「柴田さん、オレ、何か食い物を買いに行きますけど……どうなさいますか?」
 西崎は立ち上がると、柴田に声をかけた。柴田も仕事に集中していたらしく、西崎の声にハッとなった顔をして、ちょっとぼんやりした顔を西崎にむけた。
「食料……何か買ってきましょうか?」
 西崎はニッコリと笑って、もう1度尋ねた。
「そうだね……」
 柴田は、やっと現実に戻った様子で、少し考えながら前髪をかきあげた。西崎は、その様子を息を呑んでみつめていた。
 − 今日は、緊張せずに、自然な口調で声をかけられただろうか…−
 そう考えながら、西崎の両の手のひらは、じっとりと汗が浮かんできていた。
「仕事……まだまだかかりそうかい?」
 柴田は、とても穏やかな声で、西崎に尋ね返してきた。
「あ……えっと……」
 西崎は、思いも寄らぬ返事に、何と答えるべきか躊躇して、自分のパソコンのモニターと、柴田の顔を交互に見た。
「いや……もしも終わりそうなら、たまにはどこかで飲みながら、美味い物でも一緒にどうかと思ったんだが……」
 柴田は、少し遠慮がちにそう言った。
「あ……いえ、はい、もう終わります! 喜んで!!」
 西崎は、踊り上がりそうになるほど胸が弾んだ。実は、全然まだ終わりそうにも無いのだが、もうそんな事はどうでも良かった。どうせ終電ギリギリまで残業を続けても終わらないのは同じだ。こんなチャンスは他に無いだろう。仕事なんて辞めだ辞め!!
 西崎は、慌てて作業中のエクセルを保存すると、パソコンを終了させて、慌しく机の上を片付けはじめた。
「ほんとに大丈夫かい?」
「はい!!」
 西崎は上着を羽織ながら、その時間のガランとしたオフィスには、とても不似合いな元気の良い返事をした。柴田はクスリと笑うと、カバンを片手に立ちあがった。


 ビルの外に出ると、夜気がひんやりと感じられた。もう冬がそこまで来ている。
「オレの好きな店でいいかい? 割と近くなんだけど」
 一緒に歩きながら、柴田がそう言った。
「あ、はい、おまかせします」
 西崎はすっかり緊張していた。柴田の部下になって3年、こうして仕事以外で一緒に歩くのは初めてだった。それもふたりきりだ。
 西崎は、柴田の事を尊敬し、憧れ、目標にしていた。が、その一方で、個人的な恋愛感情も持っていた。
 西崎はゲイだ。もちろん自分でも自覚はある。特定の恋人はいない。家族や世間体も気にしていた。一時は、その気も無いのに、数人の女性と付き合って、自分の性癖を隠そうとしたりした。その反動で、自分のそういう惰弱な部分に嫌気がさして、毎晩新宿2丁目を徘徊し、男遊びに明け暮れた頃もあった。
 しかし、3年前人事異動で、今の部署に移り、柴田と出会ってから、全てが変わった。一目惚れだった。恋愛感情だけでなく、その人と成りに惚れる相手に出会ったのも初めてだった。愛して、尊敬の出来る相手。多分生涯でただ一人かもしれないとさえ思った。
 しかし、柴田はノーマルであり、妻のいる身で、会社の上司だ。恋愛の未来に希望を持ってはいけない相手。見返りを期待してはいけない恋。相手に悟られてはいけない想い。
 ただ側にいるだけでいい、部下として彼に尽くそう。恋愛は無理でも、仕事の上で片腕と成れる様になろう。パートナーと呼ばれる関係になりたい。この想いを、情熱を、押えるように努力しよう。こんな風に思える人は、初めてだから……


「学生時代は、何かスポーツをしていたのかい?」
 ずっと黙ったままふたりは歩いていたが、やがて柴田が先に口を開いた。
「あ、はい……高校までバスケをしていたんですが、膝を痛めてしまって……まあ、それで将来が変わってしまう程、有能な選手でも、強いチームでもなかったので、悲観はしていませんけどね……今でもたまに趣味でバスケをやっていますよ」
「そうなのか……どうりで体格が良いはずだ。社内でも君は目立つものな」
 柴田は、西崎を少し見上げて微笑んだ。身長が188cmある西崎が背広を着ると、とても迫力があって目立つ。
「あ、ここ……この店だよ」
 地下へと下りる階段を、柴田が先に行き、西崎も後に続いた。中に入ると、黒を基調にしたシンプルで洒落た空間が広がっていた。照明が少し暗めにしてあり、かすかにジャズがBGMとして流れていた。
 一見ジャズ喫茶か、ショットバーという雰囲気だった。
 柴田は、この店の常連らしく、ウェイターの方から挨拶をしてきて、いつもの場所にとでも言う様に、奥のテーブルへと案内した。
「おまかせするよ」
 柴田は、小さな声でウェイターにそう告げると、ウェイターはコクリとうなずいて、厨房へと消えて行った。
「ここはそうは見えないと思うけど、実は和食の店なんだよ。料理も美味いけど、酒も良いのが入っているんだ」
「そうなんですか……よくいらっしゃるんですか?」
「ああ……ひとりで食事をするのにも、静かで雰囲気がいいからね……とくにここ1〜2ヶ月は、頻繁に利用しているかな……」
 柴田は、自嘲気味に目をふせてそう答えた。西崎は、ハッとして黙り込んだ。
 以前、会社の給湯室で、噂好きの女子社員達が、囁き合っていた会話を、うっかり立ち聞きしてしまった事があった。
『柴田部長、奥様と別居なさっているんですって』
『夏に奥様が家出したって聞いたわよ』
 そんな会話が脳裏に浮かぶ。
「ほら、どうした? ボーッとして……腹が減り過ぎたのか? 乾杯しよう」
 柴田の呼びかけに、西崎は我に返った。
「あ、はい!」
 いつの間に来たのか、目の前にある黒い漆塗りの枡を慌てて手に取ると、なみなみと入った日本酒をこぼさないように注意して、柴田の枡と乾杯を交わした。
「ウチの有能なホープに乾杯」
「あ、ええ? いや……そんな有能だなんて……」
「謙遜謙遜……有能じゃないか、今の仕事が君に合っていたのかな? 異動してきて、1年で主任に昇格……今、君ががんばっている企画のプレゼンが成功したら、課長昇格も近いと思うよ」
− それは、すべて貴方の為です。−
 そんな言葉を、酒と一緒に飲み込んだ。
 次々と出てくる上品で美味しい料理に舌鼓をうちながら、仕事や趣味の話を肴に、酒も美味しく進む。お互いに、とても良い具合にほろ酔い加減になっていた。
「君、結婚は? ……そろそろ考える歳ではないのかな? 特に彼女とかは、そろそろ年頃で、うるさいんじゃないのか?」
「恋人はいませんから」
「また……嘘だろう? ……君はハンサムだし、体格も良いし、社内でもモテモテだろうに……女子社員が放っておかないだろう」
「いえ……そうでもないですよ……それにモテモテなのは柴田さんの方じゃないですか……ウチの女性達も、みんな柴田さんのファンですよ」
「ははは……オレはもう40のおじさんだよ……」
− 妻もいるし……とは言わないのですね。−
 西崎はそんな事を考えながら、黙って柴田をみつめて、酒を一口飲んだ。西崎の視線を感じてか、柴田はふいと視線を逸らした。
「いえ、柴田さんはおじさんなんかじゃないですよ。今でも十分に魅力的です」
 西崎は、柴田を尚もみつめてそう言葉を続けた。柴田は、視線を逸らしたまま、くいっと酒を飲み干して、枡をテーブルに置いた。その手が心なし震えている気がする。頬が赤いのは、酒のせいだけだろうか……
 柴田は、何かから耐えているように、目を伏せて眉間に小さくシワを寄せた。
 西崎の中には、確信するものがあった。それはもうこの半年近く、ずっと感じていた事だ。
 柴田は、以前から自分の視線に気づいている。「熱い想いを寄せる視線」にだ。きっとこの気持ちも悟られているだろう。しかし柴田は、何も言わない。別段避ける様子も無い。ただ単に相手にもされていないのか? とも思った。しかし違う。柴田もまた、西崎の事を意識しているのだ。
 それは受け入れている上に、たぶん……彼もまた西崎に対して特別な感情を持っている。たぶん……だ。だが、西崎は確信していた。
 しかし西崎にとって柴田は憧れの人であり、尊敬する上司だ。例えそんな確信に近い想いがあったとしても、それを試そうとか、確かめようとかなんて、恐れ多くて出来る筈も無かった。
 こうしてただ、食事に誘われただけでも、緊張して舞い上がってしまうくらいなのだから……
 でも今は酒の力を借りて、少し態度が大きくなっている気がする。自分でも自覚はあるが、もう押えられない。確信をより確実にしたい衝動。
 西崎は、そっと左手をテーブルの上に滑らせて、置いた枡を握ったままの、柴田の右手に軽く触れた。
 本当に軽く、小指が触れただけだ。ごく自然に、傍から見ても、ただテーブルの上に手を置いているだけのように……故意に手を触れようとはしていないかのように自然に……
 ビクッと体を震わせて、顔をあげた柴田は、西崎をみつめた。西崎も、ジッと真っ直ぐな眼差しで見つめ返す。
 西崎が触れている小指から、柴田の右手がかすかに震えているのが感じられた。しばらく見詰め合った後、耐えられないというように、柴田はまた目を伏せて、顔を逸らした。
 しかし、柴田は手を引かなかった。その手は互いに触れ合ったまま、自ら離れる気はないようだ。西崎の「たぶん」が確信に変わった瞬間だった。
 それは同じ性癖同士の感だろうか……何も言わなくても、その柴田の眼差しで、震える手で、仕草で、すべてが解った。
 西崎は、それでもう十分だった。心が満たされた気がした。胸の奥が絞めつけられるような甘い息苦しさを感じる。それは幸福な息苦しさだ。
 しばらくの沈黙の後、ふたりとも何も言わないまま、静かに立ちあがった。出口に向い、会計を済ませた。
 柴田が奢るというのを、西崎は丁重に断り割り勘にした。
 時計は12時を回っている。外に出ると、来たときよりも更に空気が冷えていた。
「オレ、まだ終電に間に合いそうですから駅まで歩きます。…柴田さんは?」
「ああ……オレはタクシーで帰るよ」
 西崎はそれを聞き、黙ってうなずくと、通りの向こうから来る空車を目ざとく見つけて手を挙げた。車は静かに、滑り込んでくると停車してドアがあいた。
「じゃあ……お疲れ様でした」
「ああ……今日は付き合ってくれてありがとう」
「はい、楽しかったです、ありがとうございました。また明日」
「ああ……また明日」
 柴田は、穏やかに微笑むと車に乗り込んだ。西崎は、深く一礼してタクシーを見送る。
 西崎は、柴田に告白しなかった。きっとこれからも、自分からこの想いを口にはしないだろう。柴田が、自分と同じように、その想いを恋愛感情と自覚して、西崎を恋愛相手として求めてこない限り……
 また明日から、仕事をがんばろう……西崎は小さく呟くと、地下鉄の駅へと歩き出した。
モクジ
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